20世紀のプロ野球選手

 一昨年・昨年と、プロ野球記録博物館で投票企画をやっていたのですが、今年は特に行う企画もありません。代わりにこっちで何かやってみようと思い、とりあえず簡単そうな選手紹介でもやってみることにします。4月1日より140日連続で140名の選手を紹介したいと思います。

 ・・・と4月1日に宣言しましたので、これが続かなくてもご愛敬ということで。たとえ続いても忘れずに更新できるかどうかが疑問だったり・・・。

 4月中旬になってあっさりストップしております。私事でいろいろ重なって・・・申し訳ない。なんとかペースを維持できるよう努力します。


梶本隆夫

 1950年代から1960年代にかけて、阪急の左のエースとして活躍。新人の年に20勝、3年目で28勝をマーク、翌年には9連続奪三振を記録した。その後負け越しが続くなど苦しんだが、1967年に連続負け越しを6年でストップさせ、この年から始まったチームの3連覇に貢献した。


 梶本隆夫は、記録で見る限り、意外性の人である。現役時代は米田哲也と阪急のダブルエースで活躍していただけに、決してそういう風には見えなかった、れっきとした主力である。だが、こんな記録を残しているのか、と思うほど、目立たない選手でもある。

 9連続奪三振、といえばオールスターでの江夏豊が有名であるが、公式戦で初めて記録したのはこの梶本である。まるでそのイメージがない。入団3年目の1956年には、20打点を叩き出している。投手の20打点は過去にも例があるが、他のポジションや代打兼任も多い中、梶本は72試合中68試合に登板している。そして、梶本以後20打点の投手は出ていない。

 それらの中の極め付けが、254勝255敗という通算成績であろう。負け越し投手の中では通算最多勝、ということになる。一方の米田は20勝勝ち越しと20敗負け越しを7年繰り返したが、梶本は6年連続負け越しを記録している。1960年の勝ち越しがなければ9年連続負け越しとなっているところであった。(2001. 4.30)

掛布雅之

 ドラフト6位でプロ入りながら、1年目で一軍に定着、2年目でレギュラーに座ると、3年目に打率.325 27本塁打 83打点とブレイク。1978年オフに田淵幸一が移籍すると、1979年には本塁打王のタイトルを獲得して阪神の主砲の座を襲った。1985年の日本一まで、主砲として君臨しつづけた。


 田淵幸一の後を受けて阪神の主砲となった掛布雅之は、江川卓との対決で魅せた。伝統の一戦と呼ばれる読売-阪神戦の中には、選手同士のライバルストーリーも多々ちりばめられているが、それまでは村山実対長島茂雄、江夏豊対王貞治という対決が注目されており、攻守所を変えた格好であった。戦前の沢村栄治対景浦将以来である。

 この対決は1979年から1987年まで9年間続いたが、正しく対決と呼べそうなのは、1984年くらいまでではないだろうか。1985年は江川が不調で掛布が絶好調、話にならない。1986年から2年間は逆に掛布が不調のどん底で、スランプに苦しんだ。江川は翌年限りりで引退、掛布もスランプから脱せられないまま1988年限りで引退した。

 共に早過ぎる引退と呼ばれ、このあたりもライバルらしいといえばそうかもしれないが、それはあまりにも寂しい。掛布の不振と共に阪神の低迷も始まった。このあたりも、主砲なればこそ、という感がある。これもまた寂しい。掛布以後、絶対的な主砲も生まれていない。良くも悪くも、阪神という球団を象徴する選手であった。(2001. 4.29)

尾崎行雄

 浪速商を中退してプロ入り。打者に途中で消えると言わしめた快速球を武器に、1年目は前半だけで17勝をマーク。史上最年少の20勝投手となった。翌年は苦しんだがナックを武器に復活、3年連続20勝をマークしたが、酷使の影響で方を壊し、以後はほとんど活躍できないまま、1973年を最後に引退した。


 尾崎行雄はルーキーイヤーに20勝をマークしてチームの優勝に貢献、翌年こそ不調で苦しんだが、そこから3年連続20勝をマークしている。そして翌年以後、7シーズンで勝利を挙げたシーズンが2回しかない。5年で使い潰されたといって良い。

 17歳で入団し、速球を武器に活躍した尾崎だが、その期間はあまりにも短かった。この頃から、エースが先発・リリーフと両刀使いでフル回転する方式から、ローテーションを確立し、リリーフ投手を置いて分業を図る体制に移行していくのであるが、尾崎はその流れに数年及ばなかった。

 それまでのエースであった稲尾和久、杉浦忠、土橋正幸といった、同じようなタイプの投手が引退するのも、尾崎が勝てなくなった頃である。投手分業制以降の前夜に、尾崎が同じような思想の下で使われ、そのあだ花となって消えたのは、誠に惜しいことである。(2001. 4.28)

景浦将

 日本プロ野球の揺籃期を代表する打者。タイガース打線の主砲として、ライバル巨人の沢村栄治との対決が注目され、沢村のドロップを打つ「景浦の目はタテについとる」と言われた。首位打者・打点王のタイトルを獲得する一方、しばしばマウンドに上っては好投を見せた。


 戦前を代表するスラッガーとして名を馳せているが、戦前の記録を調べると、その強打を証明するのは意外と難しい。戦前の本塁打記録は10本である。だから、長打力でその力を量ることは難しい。つまり、我々が強打者と認めるものは、基本的に本塁打打者である。

 だが、これはあくまで戦後的感覚である。戦前の記録には、それにあった測定方法が必要になる。例えば、リーグ平均の数字と比較する方法で、これは数よりも率で比較するのが中心になる。数の場合は、リーグ全体に占める割合という方法もあるが、いずれにせよ難しい。

 打率で見てみると、リーグ平均と比べて、常に3分以上上を打っている。といっても、当時のタイガースはリーグトップの打率を誇るチームであったが、それと比べてもほとんど上回っている。だがこれは主力打者なら当然の数字であろう。他の打者との比較も必要になってくるだろう。(2001. 4.27)

落合博満

 1980年代を代表する大打者。ロッテ時代には3度の三冠王に輝く。特に1985年・1986年は2年続けて打率.350 50本塁打 100打点をクリアするハイレベル。1987年からは中日に、1994年にはFAで読売へ移籍、両リーグでの三冠王は成らなかったが、主砲の重責を果たしつづけ、チームの優勝にも貢献した。


 落合博満の実績に関しては、三冠王三度、セ・パにまたがる本塁打王・打点王、と並べるまでもないだろう。通算本塁打も510本で現在第5位である。500本塁打は7人、400本塁打でも13人にしかならないことを考えても、落合の本塁打数は見事である。

 その13人の中で、落合は最多の4球団でプレーしている。ロッテで8年、中日で7年、読売で3年、日本ハムで2年である。3球団でプレーした選手には野村克也・門田博光・張本勲といるが、野村と門田は南海で、張本は東映・日拓・日本ハムで、それぞれ15年以上プレーしている。落合は、400本塁打者の中で唯一人、1球団で10年以上プレーしたということが無い。

 このあたりに落合の凄さがうかがえるのではないか。三冠王を何度も獲得した安泰の地であったはずのロッテから中日に移籍し、それでなおトップクラスの成績を挙げつづけた。環境が大きく変わっても自分の力を発揮できる、その柔軟さは、バッティングフォームからも見て取れたように思う。(2001. 4.26)

岡本伊三美

 百万ドル内野陣の一角を形成した名二塁手。守備だけでなく、俊足でも他の選手に引けを取らなかった。バッティングはまずまずであったが、その後400フィート打線へとチームの売りが変化してからも、岡本は二塁に座って安定した力を発揮し続け、1959年には念願の日本一に輝いた。


 岡本伊三美は1950年代のパリーグを代表する二塁手である。だが、実際の数字を見ていると、それほどの成績を残しているようにも見えない。3割が1度しかないし20本塁打放ったこともない。俊足ぞろいの当時の南海にあって、30盗塁も何度か記録しているが、後半は2ケタ盗塁することも少ない。

 そんな岡本の最大の評価は、やはりその二塁守備であろう。2リーグ分裂当時は、監督であった鶴岡一人が二塁を守っていたが、岡本が台頭して鶴岡を監督専任へと追いやった。一塁の飯田徳治、三塁の蔭山和夫、遊撃の木塚忠助とあわせて、百万ドル内野陣のニックネームがつけられた。

 蔭山ももともと三塁を守っていた鶴岡を二塁へ追いやったのだが、蔭山が即戦力として入団したのと対照的に、岡本は当時創設されたばかりの二軍からのたたき上げである。それで「親分」を追いやったのだから、本人の凄さが知れるというものである。(2001. 4.25)

大矢明彦

 1970年に入団、たちまち正捕手の座を得た。入団当初から強肩を発揮、以後8年続けて盗塁阻止率4割以上をマーク。1978年にはヤクルト初優勝にも貢献した。肩だけでなくリードも定評があり、松岡弘・安田猛・鈴木康二朗らクセのある投手を引っ張った。


 強肩で慣らし、8年連続で盗塁阻止率4割以上をマークしている。9年連続の望みを絶たれた1978年にチームは初優勝を果たしているからわからないものである。だからというわけでもないだろうが、この間のセリーグの盗塁王は数字の低い選手が多い。

 例えば1970年は同僚の東条文博が28個、1973年は高木守道が28個、翌1974年は中塚政幸が28個といった具合であり、リーグの盗塁成功数が400個を割ることもあった。盗塁成功数だけでなくて盗塁企図数自体も少なく、1971年の910個が飛びぬけていてあとは750個以下である。この間パでは1000個を割ったことが2度あるだけである。

 走者が走ること自体、パより3割少ない。アウトになりそうな状況では寄り慎重だったということであり、逆にいえばそれだけ成功率の高そうな機会に走ろうとしているわけである。そんな中でなお、高い阻止率を記録しつづけただけに、評価は高くなる。(2001. 4.24)

大杉勝男

 昭和40年代のパリーグを代表するスラッガー。東映時代は3000本安打の張本勲とコンビを組んでパリーグ投手陣を震えあがらせ、ヤクルト時代は若松勉とコンビを組んでヤクルト初優勝に貢献した。1978年の日本シリーズ第7戦での2本塁打は今も語り継がれている。


 大杉勝男はプロではじめて両リーグで1000本安打を放った。惜しくも両リーグ200本塁打は逃したが、セからパに移籍して両リーグで首位打者を獲得した江藤慎一と同様、両リーグで力を発揮した選手であるが、江藤と違って実力のパを見せつけた格好である。その大杉は、ヤクルト移籍前と後でバッティングスタイルを変えたようである。

 東映からヤクルト移籍までは、打率3割は2回ながら、3年連続40本塁打を含む6年連続30本塁打を記録する典型的なパワーヒッターであった。それが、ヤクルト移籍後は30本塁打こそ2度しかないが打率3割を5回記録している。中距離タイプの成績になっているのである。晩年まで長距離砲、というイメージがあるのは、1978年の日本シリーズでの、あの本塁打があるからかもしれない。

 移籍前後の数字が低調で、スランプのときに移籍が絡んだだけ、とも考えられるが、大杉のバッティングの変化は、スランプ克服の過程であると同時に、(当時の)セとパの野球のスタイルの違いにも原因があるのではないかと思う。今の移籍選手にも、参考になるのではないだろうか。(2001. 4.23)

大下弘

 戦後プロ野球が復活する中で、大下の放つホームランの魅力は、ファンを取り戻しす原動力の一つとなった。1946年の20本塁打は高く評価される。おもに活躍したのは東急時代までだが、日本シリーズ3連覇など、西鉄黄金時代の4番打者として活躍した結果、そのイメージが非常に強くなっている。


 戦後の復興の中、ホームランブームを巻き起こし、プロ野球の人気を盛り上げた第一人者である。1946年のシーズン、20本塁打を放ったことがそのきっかけとなったが、戦前の本塁打記録がシーズン10本、春と秋を合計してようやく11本という中での20本塁打は、頭抜けた感がある。

 当時の凄さを検証するために、宇佐美徹也は、2位との本数差、リーグの総本塁打数に占める割合などを駆使してその偉大さを証明している。それを否定することはできないが、後半はさすがにその力も衰えてしまった感がある。1951年に本塁打王を獲得したが、西鉄移籍後は20本塁打が一度、最後の4年はいずれも5本以下に終わった。

 30本塁打を打ったのは、ラビットボールの1950年一度しかなく、トータルで見ると大下は中距離打者であった、という評価になるであろう。むしろ通算打率.303が示すとおり、バッティング技術に優れた選手であり、パワーよりも技術でホームランを打った打者だったのではないかと思うのである。(2001. 4.22)

大沢啓二

 現役時代はクレバーな外野守備が評判だった。引退後はコーチを経てロッテの監督に就任、その後日本ハムの監督となり、6年目の1981年についにリーグ優勝を果たした。「親分」というニックネームがぴったり来るキャラクターで親しまれている。


 鶴岡一人が初代「親分」なら、大沢啓二は二代目である。「親分」と呼ばれるような人物には、どういう違いがあるのか。よく言われるのは「情の厚さ」であろう。だがそれだけではただの馴れ合いに終わりかねず、監督業が務まるはずもない。

 情に厚いと見せて、したたかさがないとやっていけないのである。特に、大沢がはじめて日本ハムの監督に就任した1976年、日本ハムはめまぐるしいメンバーの交代期を迎えていた。それまでの看板であった張本勲・大杉勝男・白仁天・大下剛史らが放出され、外国人選手や移籍組がチームの中心を占めた。

 それまでの暴れん坊打線の流れの中で生まれた馴れ合いを断ち切って、ようやく、1981年・1982年と2年連続で後期優勝を果たすことができたのではないか。そして、その戦力をようやくまとめあげたところに、大沢の真価があるのではないだろうか。(2001. 4.21)

大石大二郎

 13年連続盗塁王の福本豊に勝って盗塁王を獲得、一気に近鉄の、そしてパリーグの看板選手にのし上がった。俊足に相俟って、小柄ながらパンチ力のあるバッティングで20本塁打も2度記録するなど、猛牛いてまえ打線のトップに座りつづけた。


 盗塁といえば二塁への盗塁がすぐに思い浮かぶが、三盗や本盗はなかなか思いつかない。大石大二郎は三盗の名手であった。数の多さもさることながら、成功率の高さも驚異的であった。大石が盗塁王争いを繰り広げた原動力であったといって良いだろう。

 三盗はリードを取りやすい分成功率も高いといわれる。だが、スコアリングポジションに進んだランナーに危険を冒させたくない、三盗を狙うくらいなら俊足の選手であり、それならばシングルヒットでもホームに帰ることができる、などの理由で、チームとしてはあまり狙わせようとしないようである。

 だが、三盗の数は盗塁王争いにも影響を与える。1997年のパリーグでは、三盗13個で計62盗塁の松井稼頭央が三盗3個で計56盗塁の小坂誠を抑えてタイトルを獲得した。松井の三盗失敗1個というのはさすがに驚異的だが、それにしても成功率を考えれば、試みるのも決して悪くないのではないか。(2001. 4.20)

王貞治

 20世紀のプロ野球を代表する選手の一人。シーズン55本塁打、三冠王2度、通算868本塁打に始まり、塁打・打点・四球・敬遠四球など多くの記録にからむ。記録とそれを生み出した一本足打法は世界的にも有名であり、その凄さはスポーツ界にとどまらない、20世紀を代表する日本人の一人でもある。


 王貞治といえば868本塁打、そしてシーズン55本塁打である。「55」は強打者の背番号として定着するまでになった。これを記録したのは1964年、高度経済成長の時代である。日本新記録ではあるが、この時点での評価は、現在のものとは若干違うものがあるのではないか。

 王はこの年6年目、1962年に初めて本塁打王を取り、翌1963年も本塁打王。本塁打打者として頭角をあらわした頃である。だが一方で、1963年には野村克也が52本塁打を放って日本記録を更新している。王の55本塁打はその翌年の更新である。

 そう考えると、当時としてはこれは不滅の大記録ではなかったのではないか。つまり、まだまだ伸びるという可能性が残っていたのではないだろうか。このときの王のタイトルには、王の長距離砲としての地位を不動のものにした、という評価が与えられたのだと思う。これが不滅の大記録となるのはずっと後年のことである。(2001. 4.19)

榎本喜八

 大毎ミサイル打線の中核に座った、選球眼に優れた強打者。通算10622四球、81敬遠四球はトップクラスの数字。通算打率.298からもわかる。一方で、一塁手として堅実な守備を披露、129試合に出場して失策1、守備率.999の日本記録を持つ名手でもある。


 榎本喜八は、三振をしない強打者であった。規定打席以上での最少三振を4回記録している。四死球も多く、まことに嫌なバッターであった。また、あまり知られていないが一塁守備もうまく、守備率の日本記録も持っている。

 そんな榎本の記録を見ていると、1964年ごろに成績の変化が見られる。それまで2度しかなかった2ケタ盗塁をこの年から4年連続で記録、過去3年50以下だった四球が60以上、それまで4年連続3割だったがこれも途切れている。ただ、それまで1度もなかった20本塁打を3度記録している。

 1963年限りで、山内和弘・葛城隆雄という榎本の後ろを打つ打者が移籍、前を打っていた田宮謙次郎も引退して、ミサイル打線が解体した結果、榎本に大きな負担がかかったのだろう。20本塁打は狭い東京球場に移ったせい。個人記録はチーム事情に大きく左右されるという一例であろう。(2001. 4.18)

江夏豊

 入団当時は快速球とカーブを武器に活躍、2年目にシーズン401奪三振の日本記録を樹立した。オールスター戦で9連続奪三振も達成したが、持病を抱え、南海移籍後にリリーフ転向を決意。広島を初の日本一に、日本ハムをリーグ優勝に、それぞれ導く原動力となった。


 江夏は沢山の伝説を残した。主な伝説だけでも、シーズン最多奪三振のタイ記録と新記録を王貞治から奪い、その間の8人の打者を打ち取った、延長戦でのノーヒットノーランに自分の本塁打でケリをつけた、オールスター戦で9連続奪三振を達成した、などがある。いわゆる「江夏の21球」もあるが、これは山際淳司のエッセイで有名になったものである。

 上の3つの伝説は有名だが、それぞれに、シーズン最多奪三振・ノーヒットノーラン・連続奪三振といった記録がからんでいる。つまり、チームの勝利には直接関係しない活躍であり、個人記録達成の場面における活躍が伝説となったものである。

 奪三振の記録は江夏でなくともそういう性質を持つが、これらの記録が、江夏に強くまとわりつく「一匹狼」「孤高」のイメージを、いっそう強くしているように思えるのである。江夏ファンに「江夏の21球」を否定する向きがあるのも、力と技のギャップだけでなく、己の記録ではなくチームの勝利にまつわる伝説だから、という理由もあるのではないだろうか。(2001. 4.17)

江藤慎一

 闘将と呼ばれたスラッガー。入団当時は捕手だったが後に外野に転向、早くから注目されていた打撃も開花して4番に座った。その後トラブルから中日を退団、ロッテに移籍して日本シリーズにも出場、翌1971年には首位打者に輝く。セで2度受賞しており、両リーグ受賞は初めてだった。


 江藤慎一は、プロ野球人生の前半には中日の主砲として活躍した。主砲といっても30本塁打は2度しかなく、本塁打・打点のタイトルには縁が無かった。代わりに、中日時代に首位打者を2度獲っているという、気迫と勝負強さで4番に座る中距離打者であった。

 その江藤も、プロ生活の後半は球団を点々とした。そんな中、1971年にロッテに在籍していた時に、3度目の首位打者を獲得した。両リーグで首位打者に輝いたのは、後にも先にも江藤ただ一人である。後に、この年江藤に連続首位打者を止められた張本勲、三冠王3度の落合博満らが挑んだが、果たせなかった。

 江藤が活躍した昭和40年代は、「人気のセ・実力のパ」と呼ばれた時代であったが、江藤はセのトップの実力がパでも十分通用することを証明した一人である。その後、江夏豊がオールスターで9連続奪三振を達成して同じように力を見せつけたが、そのとき江藤も三振しているというのも、何かの縁かもしれない。(2001. 4.16)

江藤智

 広島に入団、3年目に11本塁打を放ち、前田智徳とのコンビで注目された。5年目の1993年から4番に定着、本塁打王・打点王のタイトルを獲得するなど赤ヘル打線の4番打者として活躍した。2000年にはFAで読売に移籍、安定したバッティングでチームの日本一に貢献した。


 フリーエージェント制度が導入されたのが1993年。FAを行使して球団に残り、年俸アップを果たす選手もいたが、移籍した選手も多かった。その中でも、ジャイアンツへの選手の流入が多く、各球団の四番打者が読売に集まるのではないかとさえ言われた。江藤智もその一人である。

 ジャイアンツにFAで移籍した選手のうち、主砲クラスといえるのは落合博満・広沢克己・清原和博と江藤の4人であろう。このうち、移籍して本塁打を増やしたのは清原と江藤だけである。清原は1本の増加だったが、江藤は5本を追加、4年ぶりに30本塁打をクリアした。

 江藤がそれまで本拠地としていた広島市民球場に比べると、東京ドームはやはり広い。そこで本塁打を増やしたのだから価値はあるだろう。本塁打の記録には、球場の広さが大きな影響を及ぼす。不利になる移籍の中での数字の上昇は、見た目以上の価値があるといえよう。(2001. 4.15)

上田利治

 大学時代に村山実ともバッテリーを組んだ捕手として広島に入団したが芽が出ず引退。その後西本幸雄の下でコーチ業に従事、西本の退団とともに阪急監督に就任。西本が果たせなかった日本一を3年連続で達成、阪急の黄金時代を築いた。後日本ハムでも監督を務めた。


 西本幸雄監督の下で、阪急は何度も読売の壁に挑んで敗れた。その後に座って阪急黄金時代を指揮したのが上田である。3年連続の日本一、リーグ4連覇を果たし、一旦監督の座を降りたものの復帰後も阪急を優勝に導いた。この監督の座を降りた理由が、有名な日本シリーズでの1時間19分の抗議である。

 この時、なぜ1時間19分もの抗議を行ったのかは、打球の真の軌道とともに、おそらく謎のままである。理由としては、ありふれてはいるが、おそらく自らに対する強烈な自信、入っていないという自信があったから、だと思う。その自信は、チーム編成にも伺える。

 上田が阪急を日本一に導いたとき、「西本の遺産」という言葉が使われた。これに反発するかのように主力級のトレードを連発、外国人選手や若手も起用し、それによってなお日本一の座をキープし続けた。1978年はその一つの集大成の年でもある。これによってパリーグを完全制覇した上田の自信は相当のものがあったのではなかろうか。(2001. 4.14)

江川卓

 入団に時間を費やしたが、念願のジャイアンツに入団すると、2年目以降エースとして定着、1981年には日本一の原動力となった。速球で三振を獲りに行くピッチングは見事だったが、晩年は肩痛に悩まされた。それでも安定した成績を残し、わずか9年で現役を引退した。


 江川卓というと、今でも入団時の経緯が取り上げられることが多い。度重なるドラフト指名の拒否や「空白の一日」、新人トレードなどである。また、現役時代では晩年の「百球肩」や、鍼を打っての登板・引退なども取り上げられる。このように、未だに江川にはマイナスのイメージが多く伴っているように思われる。

 江川の現役時代は9年間と短い。ほぼ完成された形で入団し、余力を残して引退したため、9年間には彼の良かった部分が凝縮されているはずである、のにもかかわらず、である。その結果、江川の記録に対する評価は、あまり為されていないように思われる。

 江川は9年間で135勝72敗という成績を残している。割りきると年平均15勝8敗の成績になる。これは、打高投低の1980年代の中で、上位の多かった読売に在籍していたことを考えても、すばらしい数字であり、計算の出来るエースであったことを示している。この点だけでも、江川はやはり怪物だったといえるのではないか。(2001. 4.13)

宇野勝

 遊撃守備はお世辞にもうまいとは言えなかったが、愛すべきキャラクターで人気があった。1984年には本塁打王にも輝いたが、敬遠合戦は本人の預かり知らぬ汚点だった。同年には大島康徳・谷沢健一・K.モッカと30本塁打カルテットを形成するなど、豪快なスイングでアーチを量産したスラッガー。


 宇野勝はホームランバッターとして活躍した。3割は一度しかなかったが、豪快な一発を放ち、スラッガーという言葉がよく似合った。その宇野に関して一番特筆されるべきは、おそらく、プロ生活の半分以上を遊撃手として過ごした、という点であろう。

 それまでの遊撃手といえば、吉田義男や広岡達朗のような俊足巧打型で守備の名手、というのが一般的であった。丸で打てなくても、守備が良ければ使ってもらえたのである。あるいは豊田泰光のようなタイプもいるが、彼が長距離砲かというと少し違う。

 その点宇野は、典型的な一発屋である。1984年には本塁打王に輝いたが、実は安打数を上回る三振をしている。守備にしても、後の池山隆寛と違い、珍プレーで紹介されるようなケースがしばしばだった。それでいてずっと遊撃に座ったのだから、ある意味稀有の存在である。(2001. 4.12)

稲尾和久

 今や伝説となった西鉄黄金時代の投の柱。入団していきなり21勝、防御率1.06をマーク。翌年から3年連続30勝、1961年にはシーズン42勝の日本記録もマーク。1963年までの8年間で燃焼し尽くしたか以後は振るわなかったが、通算防御率が1点台(1.98)というのは驚愕に値しよう。


 江夏豊と同様、数多くの伝説を残した選手の一人である。西鉄全盛期のエースとして、1958年の日本シリーズでは3連敗4連勝のドラマの立役者となり、1961年にはシーズン42勝の日本記録をマーク、その他にも数々のエピソードを残している。まさに20世紀を代表する投手の一人である。

 その稲尾の伝説には、「孤軍奮闘」のイメージが宿っている。例えば、1961年の42勝の時も、チームは優勝はできなかった。これはこの時代の投手に一種共通したイメージではあるが、稲尾の場合は特にそれが強い。ここには、おそらくその後の西鉄の運命が投影されているのではあるまいか。

 西鉄は1963年の優勝を最後に、徐々に凋落の道を歩んでいった。そのギャップが、西鉄の黄金時代をよりいっそう輝かせ、伝説の色濃さを強めている。そして、稲尾の記録にもこのギャップが影響しているように思われる。救いは、記録の偉大さがそれを余り感じさせないことである。(2001. 4.11)

伊東勤

 20世紀終盤を代表する名捕手。12年連続で規定打席に到達していることからも、どれだけ信頼が厚かったかが分かる。森祇晶の下で才能を伸ばし、西武黄金時代を支えつづけた。守備・打撃だけでなく脚力もあり、当初は「走れる捕手」として売り出されたほどである。


 伊東勤は1984年くらいから脚光を浴び始め、その後西武のリーグ5連覇を支えるなど、リーグを代表する捕手に成長したのは周知のとおりである。その伊東が注目されるようになった頃のキャッチフレーズは、リードでもなければバッティングでもない、「走れる捕手」というものだった。

 1984年のシーズン、伊東は初めて規定打席に到達したが、シーズン20盗塁を記録した。チームでは石毛宏典に続く2番目の数字である。ここから先のキャッチフレーズがついたわけである。その後も含め、2ケタ盗塁が6回ある。確かに捕手としては走るほうかもしれない。

 だが、戦前には吉原正喜が30盗塁を記録しているし、土井垣武や和田博実、野村克也といった名手も2ケタ盗塁を何度か記録している。それだけ最近は、捕手は走らないというイメージが定着しているのだろう。もっと崩してもよいイメージだと思う。(2001. 4.10)


イチロー

 20世紀の日本をわずか7年の実績で代表しうる稀有の天才。独特の振り子打法を引っさげ、3年目に史上初のシーズン200安打を達成、この年から7年連続の首位打者に輝いた。攻守走全てにハイレベルのプレーを披露し、21世紀にはメジャーリーグでの活躍が期待されている。


 20世紀も最後になって、日本プロ野球史に名を残す選手が現れた。入団3年目、大した実績もない若い選手が、打率4割に迫る勢いでヒットを量産、打率.385のパ記録、210安打の日本新記録を樹立した。マスコミは、彼を天才プレイヤーとして取り上げ、ファンは4割の可能性に酔った。

 それから6年、彼は連続して首位打者のタイトルを獲得しつづけた。彼の能力は衰えることを知らないかのように開花しつづけた。だが、マスコミとファンは、それらにはあまり関心がないように見えた。彼らの関心はただ一つ、「夢の4割」をいつ達成するかだけに注がれるようになっていた。

 日本でプレーする最後の年となった2000年、彼はおそらく打率4割を狙っていたのではないか。結局達成できなかったが、その代わりにパリーグ新記録をマークした。しかし、このことを目立って取り上げたマスコミはほとんどなかった。終盤の故障で話題にしにくかった事情もあろうが、最大の理由は、その新記録は「夢の4割」ではなかったからだったと、私は思っている。(2001. 4. 9)


石毛宏典

 プリンスホテルから西武入りし、いきなり新人王を獲得。山崎裕之に続くチームリーダーとして、以後ベストナイン・ゴールデングラブの常連となった。西武が常勝軍団への道を進んでいく中で、チームリーダーとしてリーグ5連覇などに大きく貢献した。


 石毛は攻守走三拍子揃った選手として、西武の2つの黄金時代に活躍した。晩年を除けば大きな故障も無く選手生活を全うして、通算1833安打を放ち、243盗塁を記録した。だが、通算の三塁打は28本である。少ないとは言わないが、石毛の残した数字からすると物足りない。

 三塁打が少ない理由には、本拠地の西武ライオンズ球場がエンタイトル二塁打の出やすい球場であったこともあったであろう。だが、それにしても少ないのは、積極的に三塁を狙わなかったからだと思われる。チームメイトだった辻発彦は安打数は少ないが三塁打数では石毛を上回る。

 足が速いからといって三塁打にできるかというと、そうでもない、ということなのだろうか。手堅いといわれた森祇晶監督の時代にも、もう少しファンにアピールできる三塁打が見たかったように思う。(2001. 4. 8)


池永正明

 高卒で1965年に入団するや20勝をマーク、衰えの見えてきた稲尾和久の後継者として名乗りをあげた。以後、西鉄のエースとして徐々に成長を遂げ、入団5年で99勝をマーク、将来は300勝をも嘱望されたが、黒い霧事件の際に八百長疑惑を持たれ、日本プロ球界より永久追放の処分を受けた。


 60年以上になるプロ野球史上の最大の汚点が、1960年代終盤に球界を震撼させた黒い霧事件である。その黒い霧事件で、悲劇のヒーローとされてしまったのが池永正明である。稲尾和久の後継者に名乗りを上げた池永の追放は、西鉄という球団を身売りへと追いこむ遠因にもなった。

 この事件の背景には、八百長疑惑があった。その裏には暴力団の陰がちらつく。この事件の前後には、プロ野球選手と暴力団関係者の交際がしばしば話題となった。プロ野球が地方で興行をする際に、興行自体やその周辺に暴力団関係者が一枚噛んでいるケースもあったという。

 現在ではこのようなことはないと思いたいが、これらは、いわばプロ野球の構造的欠陥である。これが八百長という形をとった時、選手に暗い影をもたらす。今は各球団ともそういうことのないように選手を教育しているようである。それだけに、池永のケースはより一層の悲劇性を帯びるのである。(2001. 4. 7)

石井琢朗

 当初は投手として入団、バッティングセンスを買われて野手に転向すると、あっという間にショートの定位置を獲得。その後サードに移り、俊足と堅守を武器に、横浜マシンガン打線のリードオフマンに定着。1990年代を代表するトップバッターとなった。


 1990年代を代表するトップバッターの一人とされている。いくつかのタイトルも手中にしている石井が獲得した最初のタイトルは、1993年の盗塁王である。その数字はわずかに24個。盗塁王としては1962年の河野旭輝の26盗塁を下回るセリーグの最低記録である。

 同じ塁を進める作戦でも、盗塁よりバントのほうが確実性があり、失敗してもランナーが残る可能性がある。盗塁のほうは、成功すればアウトカウントを増やさずに済むし、バッターを一人犠牲にしなくても済む。何よりスリルがあり、見た目にもアピールする。

 結局、確実性を求めるか、エンターテインメントを求めるか、という立場の違いになってくるのであろう。どちらをとるか、それは最終的には(スタッフを含む)プレイヤーが決めることであるが、双方を両立させられるのが、真のプロだろう。その道は非常に険しいのだが・・・。(2001. 4. 6)


飯田徳治

 6年連続40盗塁、1246試合連続出場と、連続記録に縁のあった飯田は、昭和20年代を代表する南海の名一塁手である。守備での評価が高いが、俊足であり、打っても長打こそないものの確実性のあるバッティングで南海打線の中軸に座り、20本塁打にも満たなかった1951年・1952年に2年連続の打点王にも輝いている。


 一塁手の守備力というものは、あまり云々されることがない。バント処理や一塁線の打球、あるいはライト方向へのゴロなどの処理が中心だが、他の内野手と大きく違うのは、他の塁に投げることが少ない、という点である。その代わり、他の野手からの送球を受け止める機会が非常に多い。

 だから、遊撃や二塁に名手が育つ陰には、受け手としてボールを確実に捕球する名一塁手がいることが多い。飯田徳治がいた時代の南海は、二塁に岡本伊三美、三塁に蔭山和夫、遊撃に木塚忠助と名手が揃っており、百万ドル内野陣と呼ばれた。その百万ドルの要が、球をしっかり受け止める飯田であった。

 ゴールデングラブ賞が制定されて以後、こと一塁に関しては人を欠くシーズンもしばしばである。そのせいかどうか、守備の巧い選手ばかりで内野をそろえる、というケースも非常に少なくなった。守備固めをしないレギュラーで揃えるとなるとなおさら大変である。(2001. 4. 5)

有藤道世

 ミスターオリオンズと謳われた名手。入団してから8年連続20本塁打を放つなど、中距離打者として安定した成績を残す一方、守備でも大きな体に似合わぬ瞬発力で、ベストナインの常連となった。監督としてはぱっとしなかったが、あの10.19のドラマの演出に名を連ねている。


 「ミスター」といえば長嶋茂雄である。その他の「ミスター」は、後ろに球団名を伴う。昭和50年代で言えば、ミスタータイガースは掛布雅之であり、ミスター赤ヘルは山本浩二であり、ミスターオリオンズは有藤道世であった。唯一有藤が違うのは、主砲ではなかった、という点である。

 入団以来8年連続20本塁打を放つなど中距離打者として活躍した有藤だが、G.アルトマンやL.リー、レオン L.、落合博満といった選手が4番に座り、有藤はその前後を固める役であった。球団だけでなく主砲もジプシー状態にあったロッテにあって、常に中軸を打つ牽引車だったことが大きいのであろう。

 そういえば最近は「ミスター」という言葉を、長嶋監督以外で聞かない。どの球団にも、候補者はいるのに、である。ファンの嗜好が多様化して、一人の選手にヒーローの姿を見出すだけではなくなったせいか、あるいはミスターを求められる選手がいなくなったのか・・・。(2001. 4. 4)

新井宏昌

 1975年に南海に入団、翌年からレギュラーの座を得た。計算できる打者としてコンスタントに活躍を続けた。近鉄移籍後の1987年にはシーズン184安打のパリーグ記録(当時)をマーク、首位打者にも輝いた。引退後は打撃コーチとして、イチローの相手役にもなった。


 安打に徹した職人である。打者を進めるバッティングは安定しており、通算300犠打も達成してするなど、まさに打撃の職人である。狭い大阪・日生・藤井寺の球場を本拠地にして、2ケタ本塁打が2度しかなく、2000本安打を達成しながら通算で100本塁打に届かないというのも、ある種の職人芸である。

 だが、最も特筆すべきは、三振の少なさである。規定打席以上の最少三振というのを6度マークしている。他にも、1983年には15三振で片平晋作に2個差の2位であるが、片平の118試合370打数13三振に対し、新井は130試合479打数の15三振である。通算では2076試合で422三振。5試合に1個しかしない計算である。

 打者を進める職人技で見せる選手は少なくないが、現役選手でこれに徹している打者といわれると、浮かぶのは和田豊ぐらいのものである。技に徹しつづけた新井には、まさに職人としての誇りを感じると共に、日本から消えつつある職人芸の最後の伝承者のイメージがつきまとうのである。(2001. 4. 3)


秋山幸二

 走攻守三拍子揃った長距離打者。ドラフト外で入団した5年目、40本塁打を放ってブレイク。1987年には40本塁打・30盗塁、1989年には3割・30本・30盗塁、1990年には30本塁打・50盗塁という記録をマーク。西武の黄金時代を支え、ダイエー移籍後は豊富な経験を若手に注入した。


 日本のプロ野球選手には、しばしば「メジャーに最も近い男」というフレーズが使われる。今でこそ多数の日本人メジャーリーガーがいるが、1990年代前半までは何度か使われたものである。秋山幸二は、恐らくその中でも一番このフレーズが似合っていた選手だろう。

 シーズンに30本程度の本塁打をコンスタントに残す。シーズンに30盗塁する能力があり、守っても守備範囲が広く肩も強い。まさに三拍子揃った選手である。特に、本塁打と盗塁を両立させるのは難しいことである。宙返りでホームインするなど、エンターティナー性もないわけではない。

 あらゆる点で、メジャーに近い、あるいはメジャーに挑戦して欲しかった選手である。今後、「メジャーに最も近い男」というのは死語になるであろう。その言葉の正確なニュアンスを知ろうとする際、秋山の存在はその手間を大きく省いてくれるのではないだろうか。(2001. 4. 2)


青田昇

 強肩で慣らし、「じゃじゃ馬」の愛称で親しまれた長距離砲。2年目には4番に座るなど戦前からその片鱗を見せていたが、開花したのは戦後。1948年に首位打者・本塁打王に輝き、その後も読売・大洋で主軸打者として5度の本塁打王に輝いた。昭和20年代を代表するホームラン打者。


 シーズンに20本塁打を打てば、まずまずの中距離打者である。それを10年続けると200本塁打になる。通算本塁打のベスト10が全て400本塁打以上で占められる昨今、200本塁打は大した記録にもならない。そんな中で、青田昇の評価が年々低くなってきているように思われる。

 青田は1942年に巨人に入団。首位打者の打率が3割を切ったこの年、シーズンの半分程度の出場ながら打率.355をマーク。強打者の片鱗を見せた。戦後には本塁打王に5度輝いた。そのうちそのうち3度は20本塁打台である。20本塁打者がリーグに5人程度しかいなかった時代の話である。

 1956年に藤村富美男から通算最多本塁打の座を奪った青田は、その後1964年に山内和弘にその座を明渡すまで、日本最高の座にあった。その意味を、もう少し評価してもいいのではないか、と思うのである。(2001. 4. 1)