全球団を相手にした男たち

鈴木 誠一


 プロ野球が2リーグに分裂したのは1950年のことである。以後両リーグはそれぞれに発展の道を歩むのだが、選手の中には 長島 茂雄(読売)や 鈴木 啓示(近鉄) のように片方のリーグでずっと活躍し続けた選手もいれば、両リーグを渡り歩いて活躍していった選手もいる。

 両リーグにからむ記録というと、全球団から勝利をあげた投手というのがある。過去には 野村 収 と 古賀 正明 の2人がいる。野村は、阪神に移籍した1983年5月15日、大洋を相手に達成し、古賀は同じ1983年10月4日に読売相手に達成している。また、 江夏 豊 のように、阪神戦だけは勝ち星を挙げられなかったが、セーブについては全球団から挙げた投手もいる。だが、打者の場合については意外と知られていない。ここでは、全球団から本塁打を放った打者について紹介してみたいと思う。

 第1号は 江藤 慎一 である。中日で長く中心打者として活躍し、ロッテでも優勝に貢献した彼は1972年に大洋に移籍した。そして、8月16日の中日戦で 三沢 淳 から本塁打してセリーグ6球団から本塁打を放った。1975年にプレイングマネージャーとして太平洋に迎えられると、6月1日のロッテ戦で 水谷 則博 から本塁打を放って達成した。

 第2号となったのが 富田 勝 である。パリーグでは南海、日本ハムでそれぞれ47本ずつ本塁打を放っており簡単に達成できたが、セリーグでは苦労した。読売時代は3年間で10本塁打しか打てず、しかも大洋からは打てずじまいであった。その彼が1981年に中日に移籍すると5月22日に大洋の 佐藤 政夫 から1号本塁打し、さらに8月26日には読売の 加藤 初 から3号本塁打して達成した。この年を最後に引退した富田にとって、これが現役最後の本塁打であった。

 第3号は 加藤 英司 である。阪急の強打者として鳴らした加藤も、富田と同様にセリーグで苦労した。1984年4月28日に古巣阪急の 佐藤 義則 から本塁打を放ってパリーグ全球団から本塁打を放った加藤は、1986年に読売に移籍すると、5月10日に広島戦で 北別府 学 から1号本塁打を放って達成した。

 上の三人は、いずれも12球団目からは1本塁打しか打っておらず、また富田は大洋からも1本しか打っていない。通算121勝の野村が最低でも各球団から3勝以上あげているのに対し、通算300本塁打以上を打っている江藤や加藤に1本しか打っていない球団があるというのは、晩年のことだからとはいえ、なんとなく不思議な気もする。


参考文献


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written by Power (= S.Suzuki : lucky@lint.ne.jp), at 1996.10.29.