「駒沢の暴れん坊」について

鈴木 誠一


 暴れん坊という言葉を聞けば、オールドファンならまず思い出すのが東映フライヤーズであろう。「駒沢の暴れん坊」「パリーグの暴れん坊」と言われて水原 茂監督の下1962年には日本一に輝く球団、その頃の東映フライヤーズはそんなイメージでとらえられている。だが、「野武士集団」と言われた西鉄ライオンズほどには、その実際については知られていないように思われる。

 だいたい、「駒沢の暴れん坊」という呼び名自体が混乱して使われているように思われる。駒沢球場は1953年に造られ、1964年まで存在した球場である。ただ、初試合は1953年9月28日だから、実際に使われだしたのは翌年からといえなくもない。1953年以降は東映フライヤーズのフランチャイズとして使われているが、実はそれは1961年までで、1962年から東映はフランチャイズを神宮球場に移している。実際、この年の日本シリーズは神宮球場で第3・4・5戦が行われている。

 したがって、厳密に「駒沢の暴れん坊」と言う時には1961年以前のチームについてのみ言われるべきであろう。「駒沢の暴れん坊」が駒沢から移転したからには、「パリーグの暴れん坊」という呼び名の方がよいように思われる。また、水原 茂が監督に就任したのは1961年だから、彼が実際に駒沢で指揮を執ったのは1シーズンだけということになる。もっとも、以後3年間も何試合かは駒沢で行われているはずである。

 さて、具体的に暴れん坊の選手たちは、と言われると、 張本 勲山本 八郎西園寺 昭夫吉田 勝豊土橋 正幸 といった名前があがってくる。実際これらの選手は駒沢時代の東映で活躍し、移転後、優勝時にも主軸メンバーとして名前を連ねているのだが(ただし山本八郎は1963年に近鉄に移籍)、これら選手の入団年は張本が1959年、山本が1956年、西園寺が1957年、吉田が1957年、土橋が1956年となっており、選手の成績から見ても、実際の暴れん坊軍団の形成は1957年くらいと考えてよい。

 ここでチームの成績について見てみると、1953年から6位、7位、7位、6位、5位、5位ときて、1959年に初めて3位とAクラス入りをする。それまでは常に下から2番目、3番目くらいの目立たないチームがいきなりのAクラス入りであるから、注目される。そして各選手がクローズアップされて「暴れん坊」の名前を頂戴した、というのが実際ではないだろうか。

 とすると、「駒沢の暴れん坊」という呼び名は、1959年のAクラス進出に伴って名づけられ、1961年に水原 茂監督を迎えてのAクラス進出でこの呼び名が定着、翌年フランチャイズを変更したが優勝のインパクトで広まったのが真相ではないか、と思うのである。「暴れん坊」の中に時々 白 仁天尾崎 行雄 なども入れられるが、それもこれが原因ではなかろうか。

 さて、優勝以後の東映フライヤーズについてはあまり知られていない。優勝の後は3位3位2位3位3位と南海、阪急に混じって奮戦していたが、この1967年に水原 茂監督が辞めて大下 弘が監督になると最下位に転落、以後一度もAクラスに上がることなく1972年を最後に日拓ホームに身売りして東映の名前は消滅、その翌年日本ハムが親会社となって、フライヤーズの名称も消えていく。1968年以降の、張本 勲・ 大杉 勝男大下 剛史 らを抱えながらの低迷には、投手陣の弱体化や球界の黒い霧の影響もあったが、もう一つ、「暴れん坊」のイメージから脱却しきれなかったこともあるのではないかと思うのである。


参考文献


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written by Power (= S.Suzuki : lucky@lint.ne.jp), at 1996.10. 9.