ピストル打線

鈴木 誠一


 1940年代後半、 藤村 富美男別当 薫土井垣 武を 中心に 金田 正泰本堂 安次後藤 次男 らを擁した阪神打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれ恐れられた。打線にニックネームがついたのはこれが最初とされている。その後、1950年小鶴 誠岩本 義行大岡 虎雄を 擁した松竹が「水爆打線」と呼ばれ、パでは読売、西鉄に敗れた南海が、 穴吹 義雄寺田 陽介長谷川 繁雄 らを入団させて「400フィート打線」を形成し、1960年には 田宮 謙次郎榎本 喜八山内 和弘葛城 隆雄 らが打率ベストテンの上位を占めて「大毎ミサイル打線」と呼ばれた。いずれも、強力打線としてその名を轟かせ、優勝している。

 これに対して、貧打線の象徴として使われるのが「ピストル打線」という言葉である。現在でも、長距離打者が少なく、本塁打が出ない、もしくは適時打などが出ずに点がなかなか取れない打線のことをさして使われているが、その元祖と言うか、初めて使われたのは、1960年代前半の近鉄であった。この当時の近鉄は、長年Bクラスに沈んでおり、「ボロ鉄」「お荷物球団」などとも言われるほどの弱体チームであったが、決して打線は今流の「ピストル打線」だったわけではない。

 1962年、近鉄バファロー改めバファローズに就任した別当薫監督は、大鉄高校を出て2年目の 土井 正博を 4番に起用して「18歳の四番打者」などと話題を呼んだ。他にも、それまで3年で1勝も挙げていない 久保 征弘が 最多勝を獲得したり、 J.ブルームが オールスター後.464の高打率で.374の打率をマークして首位打者になるなど活躍したが、5年連続の最下位というどん底であった。

 しかし、翌1963年、チームは最下位を脱出して4位に浮上、74勝73敗でチーム創設以来二度目の勝率5割であった。投手陣では1961年の新人王 徳久 利明が 20勝をマーク、久保も19勝をマークして両輪として大活躍したが、打線も活発であった。東映から 山本 八郎を 迎え、 小玉 明利、 ブルーム、土井、 関根 潤三矢ノ浦 国満、 らも活躍した。これがピストル打線と呼ばれたのである。

 ブルームが2年連続の首位打者、小玉が打率4位、関根が6位に入り、また山本、土井、矢ノ浦も打率15位までに入った。それにもましてすごいのが二塁打である。土井の33二塁打を筆頭に、ブルーム31、小玉30と30二塁打が3人、山本28、関根26、矢ノ浦21で、チーム合計232二塁打は2位の大毎より37も多かった。150試合制になったことも二塁打増加の一因といえるかもしれないが、他球団と比較すればその影響による増加とはあまり言えないであろう。

 近鉄の中距離打線ぶりがうかがえるもう一つの資料として、この年南海との比較があげられる。この年、近鉄のチーム打率は.25620の2位である。1位の南海は.25621であり、ほんとうに僅差であるが、打率は同じながら本塁打は南海の184本(リーグ1位)に対し近鉄は半分の98本(同5位)しかない。そして、二塁打は近鉄の232本(リーグ1位)に対して南海は174本(同6位)であった。

 久々に勝率5割をマークした近鉄であったが、翌1964年はまた最下位に沈んでしまう。しかし、二塁打225はこの年も1位であった。

 ピストル打線は、二塁打を中心とした中距離打線がその語源となっており、チーム浮上の原動力になるだけの打線であったわけである。確かにミサイルやダイナマイトほどの迫力はないが、決して、打てない、点の取れない打線とは違うのである。


参考文献


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written by Power (= S.Suzuki : lucky@lint.ne.jp), at 1997. 2.14.