監督・コーチ陣変遷一覧

八木監督時代

ポスト 381 382
監督 八木
ヘッド 浅越
打撃 平井
打撃補佐 豊川
投手 武藤
川越
バッテリー 小川
内野守備走塁 岡崎潔
外野守備走塁 立花
野手育成 岡崎康
投手育成 田伏

 期待されたが振るわなかった東川監督は3年で契約を打ち切り、後任には八木ヘッドコーチが昇格することになった。コーチ陣はヘッドコーチに浅越投手コーチ補佐が昇格、投手コーチ補佐は置かれない代わりに、投手コーチとして大エースだった川越行雄が復帰した。

東川監督時代

ポスト 378 379 380
監督 東川
ヘッド 八木
打撃 平井
打撃補佐 豊川
投手 武藤
投手補佐 浅越
バッテリー 小川
内野守備走塁 岡崎潔
外野守備走塁 立花
野手育成 岡崎康
投手育成 田伏

 生田監督は契約どおりの年数で退団、後任として東川ヘッドコーチが昇格した。空いたヘッドコーチには八木投手コーチ補佐が転任した。また、岡崎潔コーチが打撃兼任を解かれて内野守備走塁担当となり、打撃コーチ補佐として豊川康幸が、また投手コーチ補佐として浅越正紀が、それぞれ復帰した。

生田監督時代

ポスト 374 375 376 377
監督 生田
ヘッド 東川
打撃 平井
岡崎潔
投手 武藤
投手補佐 八木
バッテリー 小川
内野守備走塁 大久保 岡崎潔
外野守備走塁 野村 立花
野手育成 岡崎康
投手育成 田伏

 4位が続き振るわなかった木戸監督は契約延長を求められず、結局後任に生田ヘッドコーチが昇格した。

 コーチ陣の刷新も当初の想定以上に大きく、岡崎潔野手育成コーチ・武藤投手育成コーチがともに打撃コーチ・投手コーチとなり、野手育成コーチには岡崎康志が招かれ、投手育成コーチには田伏投手コーチ補佐が転任した。平井打撃コーチはそのままだったが、東川投手コーチはヘッドコーチに昇格した。

 さらに投手コーチ補佐として八木信行が呼ばれ、バッテリーコーチも藤岡から小川春樹に代わるなど、配置転換もあいまって大きく顔ぶれが変わる印象を残した。

 376年度には守備面の強化を課題として、岡崎潔が内野守備走塁コーチを兼任、大久保コーチが退団した。また野村外野守備走塁コーチも健康面から退団を申し出、後任に立花章雄が就任した。

木戸監督時代

ポスト 370 371 372 373
監督 木戸
ヘッド 生田
打撃 平井
打撃補佐 岡崎潔
投手 東川
投手補佐 田伏
バッテリー 藤岡
内野守備走塁 大久保
外野守備走塁 野村
野手育成 田中 岡崎潔
投手育成 武藤

 22年ぶりの優勝を果たした小林正監督が勇退、後任人事は外部招聘も検討されたが、OBの木戸顕司に白羽の矢が立った。OB出身でコーチ経験のない監督は、宮本克義監督以来107年ぶりの、あっと驚く人事だった。

 監督は58歳だがコーチ陣は若返りが進められた。鍛冶屋打撃コーチが退団して平井打撃コーチ補佐が昇格、後任に岡崎潔が就任した。また、佐倉投手育成コーチも退団し、武藤投手コーチ補佐が投手育成コーチに回って田伏智志が投手コーチ補佐に就いた。

 3年目の372年度に異動があった。田中野手育成コーチが年齢を理由に退団、後任には岡崎潔打撃コーチ補佐が回ることになった。打撃コーチ補佐は空席のままである。

小林監督時代

ポスト 363 364 365 366 367 368 369
監督 小林正
ヘッド 生田
打撃 鍛冶屋
打撃補佐 平井
投手 宇崎 生田 東川
投手補佐 生田 東川 武藤
バッテリー 藤岡
内野守備走塁 大久保
外野守備走塁 野村
野手育成 田中
投手育成 佐倉

 監督候補といわれ続けた小林正が、5年間の深川監督時代の後を受けて監督に昇格した。後任のヘッドコーチは置かず、最年長の田中野手育成コーチがヘッド格として就くことになった。

 これにより田中コーチは走塁コーチの兼任を解かれ、野村打撃コーチが外野守備走塁コーチに転任することになった。あわせて、鍛冶屋打撃コーチが兼任してきた外野守備コーチも解かれることになった。また、打撃コーチ補佐として平井和彦が就任した。

 3年目に早くも異動がおきた。宇崎投手コーチを解任、生田投手コーチ補佐を昇格させ、東川克彦を投手コーチ補佐に据えた。

 5年目の367年度には、打撃陣強化を目標に、田中野手育成コーチが野手育成コーチに専念、代わりに生田投手コーチがヘッド格となったが、翌年には生田がヘッドコーチに就任。東川が投手コーチに昇格し、武藤貞雄が投手コーチ補佐に復帰した。

深川監督時代

ポスト 358 359 360 361 362
監督 深川
ヘッド 板東 小林正
打撃 鍛冶屋
野村
外野守備
投手 小林正 宇崎
投手補佐 宇崎 生田
バッテリー 藤岡
内野守備走塁 大久保
野手育成兼走塁 田中
投手育成 佐倉

 9年間で優勝争いにもなかなか絡めない苦しい時代を率いた豊原監督も退団、深川外野守備走塁コーチが昇格することになった。

 野村打撃コーチが外野守備コーチを兼任、それに合わせて鍛冶屋打撃コーチ補佐が打撃コーチに昇格、また室野野手育成コーチの退団を受けて田中内野守備走塁コーチが野手育成兼任走塁コーチに転任。兼任コーチ2名という珍しい体制になった。また、内野守備走塁コーチには大久保光生が就いた。

 5年目の362年度に板東ヘッドコーチに代えて小林正勝投手コーチをヘッドコーチに昇格させた。後任には宇崎投手コーチ補佐が昇格し、また生田恵三が投手コーチ補佐に就いた。

豊原監督時代

ポスト 349 350 351 352 353 354 355 356 357
監督 豊原
ヘッド 板東
打撃 亀田
クレドス 野村
打撃補佐 野村 鍛冶屋
投手 小林正
投手補佐 佐倉 宇崎
バッテリー 小田 藤岡
内野守備走塁 田中
外野守備走塁 深川
野手育成 室野
投手育成 佐倉

 就任6年目で優勝、さらにリーグ3連覇を達成しセミファイナル優勝も果たした老将も、3位後退を受けて退陣、後任には長年バッテリーコーチを務めた豊原が昇格することになった。

 後任バッテリーコーチには、晩年熱海へ移った山内崇が復帰することになった。また、投手コーチとして晩年川並衆へ移った小林正勝を招聘するなど、移籍組OBの起用が目立った。

 併せてトラジェヘッドコーチが、佐々木投手コーチ、才所内野守備走塁コーチが退団した。ヘッドコーチには板東投手コーチ補佐が昇格、投手コーチは小林正と板東の後任として佐倉典志がコーチ補佐に、内野守備走塁コーチには田中謙志が復帰した。

 3年目の351年度はリーグ再編ということもあり気分一新、山内バッテリーコーチと谷投手育成コーチが退団、バッテリーコーチには藤岡裕紀、投手育成コーチには佐倉投手コーチ補佐が転任した。また、投手コーチ補佐として無念の現役引退となった宇崎圭基が復帰した。

 352年度を最後にクレドス打撃コーチが家庭の都合で退団したが、翌年チームは大きく負け越し、あわてて野村光則を打撃コーチ補佐に入れたが状況変わらず、354年度からは打撃コーチに昇格して再び打撃コーチ2人体制に戻した。

 さらに355年度には下位脱出を打線強化に求め、亀田打撃コーチに代えて鍛冶屋正次を打撃コーチ補佐に迎えた。

古沢監督時代

ポスト 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348
監督 古沢
ヘッド トラジェ
打撃 亀田
伊藤 クレドス
外野守備走塁 深川
打撃補佐 室野
投手 李a哲 佐々木
投手補佐 佐々木 板東
バッテリー 豊原
内野守備走塁 才所
野手育成 亀田 室野
投手育成

 2位4回となかなか優勝に届かぬまま336年度には71年ぶりの最下位。転落の責任を取って沢口監督は辞任した。

 後任はかつての沢口同様に古沢ヘッドコーチが昇格。コーチ陣の入れ替えだけでなく配置転換も行われた。最たるものはトラジェ野手総合コーチのヘッドコーチ転任であった。

 高橋充打撃コーチが退団、後任には伊藤照幸が就任、外野守備走塁コーチも兼ねることになった。これに伴い才所守備走塁コーチは内野守備走塁コーチとなった。

 341年度からのリーグ再編に伴い、コーチ陣は大幅に配置転換が行われた。亀田野手育成コーチが打撃コーチに転任、後任には室野打撃コーチ補佐が就いた。また、佐々木投手コーチ補佐が投手コーチに昇格、投手コーチ補佐として板東克彦が入った。内部異動がほとんどだったため、退団したのは李a哲投手コーチだけだった。

 347年度には伊藤打撃兼外野守備走塁コーチが退団、後任には、打撃コーチにK.クレドス、外野守備走塁コーチに深川宏がそれぞれ就任、コーチ陣は11人の大所帯となった。

沢口監督時代

ポスト 328 329 330 331 332 333 334 335 336
監督 沢口
ヘッド 高山 古沢
打撃
高橋充
打撃補佐 亀田
投手 李a哲
投手補佐 山田 佐々木
バッテリー 豊原
内野守備走塁 トラジェ
外野守備走塁 エクウス
守備走塁 才所
野手総合 トラジェ
野手育成 古沢 亀田
投手育成 高橋正

 Bクラス転落を契機にグレンジャー監督は解雇。その采配・戦術は賛否の大きく分かれるところだったが、ともかくも2度の優勝をもたらしたグレンジャー時代はここに終わった。

 後任は沢口ヘッドコーチが昇格。グレンジャー前監督の路線をどうするかが焦点だったが、引っ張ってきたコーチ陣はほぼ残留。一部コーチの入れ替えにとどまった。

 沢口ヘッドの後任は高山打撃コーチが兼任、打撃コーチ補佐として亀田和寿、投手コーチ補佐に山田功年が復帰した。また、若杉内野守備走塁コーチと宍戸バッテリーコーチが退団、後任にはH.トラジェと豊原公孝が就くことになった。

 2年目には早くもコーチ陣を入れ替えた。高山ヘッド兼打撃コーチが退団を申し出たこともあったが、古沢野手育成コーチが高山の後任としてヘッドコーチと打撃コーチを兼任した。空いた野手育成コーチには亀田打撃コーチ補佐が昇格した。

 さらに体制は大きく変わる。エクウス外野守備走塁コーチも退団し、トラジェ内野守備走塁コーチが打撃面のサポートも果たすべく野手総合コーチに転任、守備走塁コーチとして才所雅樹が入団した。加えて谷直彦が投手コーチ補佐として入団した。

 守備走塁コーチという肩書きが実に153年ぶりの復活なら投手系コーチ4人も史上初という異例づくめの体制となったが、これで30代のコーチが5人と一気に若返った。

 リーグ再編を迎える331年度には再び異動が生じた。高橋投手育成コーチと山田投手コーチ補佐が退団、谷投手コーチ補佐が投手育成コーチの後任に回った。また、高橋充が打撃コーチに就任、古沢ヘッド・トラジェ野手総合コーチとともに3人で打撃指導する体制となった。

 334年度からは佐々木智が投手コーチ補佐として復帰、再び10人体制となった。

グレンジャー監督時代

ポスト 321 322 323 324 325 326 327
監督 グレンジャー
ヘッド 沢口
打撃 高山
打撃補佐 古沢
投手 鈴波 李a哲
投手補佐 李a哲
バッテリー 宍戸
内野守備走塁 若杉
外野守備走塁 エクウス
野手育成 都々野 古沢
投手育成 高橋

 チームを16年ぶりの2位に押し上げながら、球団は松尾監督との契約を延長せず、退陣が決まった。新監督に選ばれたのは、野手総合コーチだったグレンジャーだった。ここに球団史上初の外国人監督が誕生した。

 グレンジャーの昇格で野手総合コーチは廃止、代わりに打撃コーチ補佐として古沢智秀が復帰した。また、葛城ヘッドコーチと飯塚バッテリーコーチが退団、沢口剛と宍戸保がそれぞれ後任に就いた。

 322年度には都々野野手育成コーチが退団、古沢打撃コーチ補佐が後任に当たることになった。打撃コーチ補佐は廃止されたが、代わりに投手コーチ補佐として李a哲が復帰、監督含めスタッフ3人が外国人という過去に例のない状況となった。

 323年度に優勝を果たしたものの、324年に3位に落ちると投手起用を巡ってグレンジャー監督と鈴波投手コーチが対立、結局鈴波コーチが退団し、李a哲投手コーチ補佐が昇格した。

松尾監督時代

ポスト 315 316 317 318 319 320
監督 松尾
ヘッド 葛城
打撃 三上
高山
投手 鈴波
バッテリー 飯塚
内野守備走塁 若杉
外野守備走塁 エクウス
野手総合 グレンジャー
野手育成 都々野
投手育成 高橋

 3位と4位を行ったり来たりの8年間だった真田監督が辞意を表明、かねて噂のあった松尾が監督に昇格した。コーチ陣も徐々に若返りつつあったので、スタッフの動きは大きなものではなかった。

 松尾の後に若杉靖夫が内野守備走塁コーチに就任、また高山が打撃コーチに昇格した。当初は三上打撃コーチの退団が予定されていたためだが、監督の慰留により残留となり、打撃コーチ2名体制となった。

 316年度限りで三上が退団、後任は補充されず打撃コーチは高山だけとなった。代わりにH.グレンジャーが野手総合コーチとして入団、57年ぶりにポストが復活した。

真田監督時代

ポスト 307 308 309 310 311 312 313 314
監督 真田
ヘッド 葛城 葛城
バッテリー 飯塚
打撃 三上
打撃補佐 小谷 高山
外野守備走塁 エクウス
投手 黒沢 鈴波
投手補佐 鈴波
内野守備走塁 松尾
野手育成 都々野
投手育成 高橋

 もともと2年契約で延長も噂されていたが、チームの低迷から結局延長はなされなかった。後任にはバッテリーコーチの真田が昇格することになった。

 真田の後任となるバッテリーコーチについては人材不足から他球団のOBも検討されたが、結局真田と、葛城ヘッドコーチが協力して見るという多少変わった体制となった。

 その他には宇都宮投手育成コーチが退団、高橋投手コーチ補佐が後任に回り、鈴波一茂が投手コーチ補佐となった。また、中嶋内野守備走塁コーチはスカウトに転向、松尾陽太が復帰することになった。

 308年度からは、現役を退いていた飯塚浄がバッテリーコーチに就任、葛城ヘッドコーチの兼任は解かれた。

 リーグ再編に伴い、311年度にはスタッフ一新の話も出たが、結局は黒沢投手コーチが退団したのみであった。後任には鈴波が昇格し、投手コーチ補佐は空席となった。

 313年度には最後の異動が行われた。小谷外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐がフロントに転身、高山博誠が打撃コーチ補佐となり、外野守備走塁コーチの後任にはH.エクウスが就任した。外国人のコーチは38年ぶりであった。

藤谷監督時代

ポスト 305 306
監督 藤谷
ヘッド 葛城
打撃 三上
打撃補佐 小谷
外野守備走塁
投手 黒沢
投手補佐 高橋
バッテリー 真田
内野守備走塁 中嶋
野手育成 都々野
投手育成 宇都宮

 7連覇を達成した藤村監督は優勝を逸したことで辞任、後任は若手育成を託された藤谷内野守備コーチが昇格することになった。

 コーチ陣にも多少の入れ替わりが見られた。まず藤谷の後に、中嶋正義が内野守備走塁コーチとして入団。また、田中ヘッドコーチが退団し、葛城将一がヘッドコーチに就任した。

 さらに吉川打撃コーチも退団、三上外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐が昇格することになった。そして外野守備走塁コーチには小谷照之が就くことになり、さらに打撃コーチ補佐を兼ねることになった。

藤村監督時代

ポスト 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304
監督 藤村
ヘッド 田中宗
打撃 吉川
打撃補佐 都々野 三上
外野守備走塁 五島
投手 岡村 黒沢
投手補佐 黒沢 高橋
バッテリー 真田
内野守備 藤谷
野手育成 山本 都々野
投手育成 宇都宮

 投手陣との仲がうまく行かなかった田中監督も5位に終わり1年で退陣、藤村ヘッドコーチが満を持しての昇格となった。後任のヘッドコーチには田中投手コーチ補佐が昇格、投手コーチ補佐として黒沢康介が就任した。また285年度の藤村以来となる打撃コーチ補佐として都々野洋介が就任した。

 295年度には山本野手育成コーチが退団、都々野が野手育成コーチに回ることになった。また、297年度には五島外野守備走塁コーチに代わり三上英雄が就任、打撃コーチ補佐も兼任することになった。

 リーグ再編となる301年度からは、岡村投手コーチが年齢を理由に退団、黒沢投手コーチ補佐が昇格した。投手コーチ補佐は空席となったが、その後304年度に高橋正人が就任している。

田中監督時代

ポスト 292
監督 田中寿
ヘッド 藤村
打撃 吉川
投手 岡村
投手補佐 田中宗
バッテリー 真田
内野守備 藤谷
外野守備走塁 五島
野手育成 山本
投手育成 宇都宮

 優勝にあと一歩届かない善戦を続けていた富沢監督もBクラス転落を機に辞任、後任は藤村ヘッドコーチの昇格も噂されたが、フタを開けてみると田中前監督の復帰となった。田中はこの間吹田の指揮も執っている。

 前年の若返りがあったため、コーチ陣で動いたのは投手コーチ補佐だけで、宮川が退団し田中宗一が就任した。

富沢監督時代

ポスト 286 287 288 289 290 291
監督 富沢
ヘッド 藤村
打撃 吉川
投手 岡村
投手補佐 宮川
バッテリー 五島 真田
内野守備 芦沢 藤谷
外野守備走塁 近藤 五島
野手育成 山本
投手育成 嵯峨兄 宇都宮

 5年間全く動かなかった田中監督が初のBクラスに落ちるとあっさり退団、かつての脳梗塞からカムバックした富沢が再度監督に就任した。

 野手系コーチ陣の異動が大きく、榎本打撃コーチは退団し後任には吉川伸彦が入団した。また、藤村打撃コーチ補佐はヘッドコーチに昇格したが、これに伴いヘッドコーチの五島がバッテリーコーチに、バッテリーコーチの山本が野手育成コーチに、それぞれ異動し、杉本野手育成コーチが退団した。

 打撃コーチ補佐の後任は置かれず、代わりに投手コーチ補佐として宮川富生が入団した。

 5年間この体制で続いたが、リーグ再編を契機にコーチ陣をてこ入れした。271年度から20年間投手陣を見てきた嵯峨投手育成コーチが退団、大エースの宇都宮雅之が後任に就いた。また、守備コーチが総入れ替えとなり、芦沢内野守備コーチ・近藤外野守備走塁コーチが共に退団、芦沢の後には藤谷彰将が入り、近藤の後には五島バッテリーコーチが異動、空いたバッテリーコーチには真田龍彦が就任した。

田中監督時代

ポスト 281 282 283 284 285
監督 田中寿
ヘッド 五島
打撃 榎本
打撃補佐 藤村
投手 岡村
バッテリー 山本
内野守備 芦沢
外野守備走塁 近藤
野手育成 杉本
投手育成 嵯峨兄

 秋季キャンプ中、突然倒れた富沢監督は脳梗塞の診断だった。幸い状態は軽かったが、治療に専念すべく辞任。わずか1年での相次ぐ交代劇に現場はかなり混乱したが、田中外野守備走塁コーチが監督に昇格することでなんとか収まった。

 外野守備走塁コーチには、6年ぶりに近藤明が復帰。また打撃コーチ補佐として藤村雄浩が入団し、打線の充実を図ることになった。

富沢監督時代

ポスト 280
監督 富沢
ヘッド 五島
打撃 榎本
投手 岡村
バッテリー 山本
内野守備 芦沢
外野守備走塁 田中寿
野手育成 杉本
投手育成 嵯峨兄

 山下監督が健康上の問題を理由に辞意を表明。長期政権を目論んでいたフロントに混乱が起きたが、結局富沢の昇格で落ちついた。

 田辺投手コーチが退団した後には、これも岡村が昇格した。同じくヘッドコーチを辞した佐野に代わり五島亮が入閣し、富沢の後の内野守備コーチには芦沢翼が入った。

山下監督時代

ポスト 276 277 278 279
監督 山下
ヘッド 佐野
打撃 榎本
投手 田辺
投手補佐 岡村
バッテリー 山本
内野守備走塁 富沢
外野守備走塁 田中寿
野手育成 杉本
投手育成 嵯峨兄

 年々成績の落ちてきた高橋監督は5位転落を受けて解任、後任は山下打撃コーチの昇格となった。ここでコーチ陣も若返りを図り、大量に異動が出ることになった。

 山下の昇格で空いた打撃コーチには榎本夏男が入団。また、投手コーチ補佐として岡村健悟が入団した。

 また、最年長の徳永バッテリーコーチをはじめ、デービス野手育成コーチ・近藤外野守備走塁コーチ・吉原内野守備走塁コーチが退団、山本誠司・杉本正幸・田中寿・富沢由隆が上記の各ポストに就任した。

高橋監督時代

ポスト 267 268 269 270 271 272 273 274 275
監督 高橋
ヘッド 大槻 佐野
打撃 佐野 山下
投手 田辺
投手補佐 宮内
バッテリー 徳永
内野守備走塁 吉原
外野守備走塁 近藤
野手育成 デービス
投手育成 加納 嵯峨兄

 外部招聘の監督が続く中で、次期監督候補と目された高橋打撃コーチ補佐が監督に昇格、3年ぶりのOB監督となった。昇格に伴い打撃コーチ補佐のポストは廃止され、代わりに宮内達博が投手コーチ補佐に就任することになった。スタッフの動きはこれだけ、コーチ陣はほぼこれまでの体制を引き継いでの出発となった。

 1年目を終えたところで大槻ヘッドが退団を申し入れ、代わりに佐野打撃コーチが昇格することになった。打撃コーチの後任には山下和則が就任、長距離砲の育成に力を入れる事になった。

 その後3年間は異動もなかったが、成績も思わしくなく、271年度には加納に代わり嵯峨真護が投手育成コーチに就任することになった。また、272年度には宮内が退団、フロント入りした。

長部監督時代

ポスト 266
監督 長部
ヘッド 大槻
打撃 佐野
打撃補佐 高橋
投手 田辺
バッテリー 徳永
内野守備走塁 吉原
外野守備走塁 近藤
野手育成 デービス
投手育成 加納

 1年契約の終わりに伴い、松本監督にはフロント入りを打診。後任として元鳴門の長部冬彦氏を招聘することになった。コーチ陣も全員残留での出発となった。

松本監督時代

ポスト 265
監督 松本
ヘッド 大槻
打撃 佐野
打撃補佐 高橋
投手 田辺
バッテリー 徳永
内野守備走塁 吉原
外野守備走塁 近藤
野手育成 デービス
投手育成 加納

 伊藤監督の辞任は球団としても予想されていた内容であり、後任監督はシーズン終盤から検討された結果、外部からの招聘と決まり、幕張OBの松本素生氏に白羽の矢が立った。外部監督を続ける間に次期監督の人材育成を、という狙いであった。

 したがって若いコーチは残留、入れ替わったのは木村外野守備走塁コーチで、こちらも若い近藤明にバトンタッチとなった。

伊藤監督時代

ポスト 264
監督 伊藤
ヘッド 大槻
打撃 佐野
打撃補佐 高橋
投手 田辺
バッテリー 徳永
内野守備走塁 吉原
外野守備走塁 木村
野手育成 デービス
投手育成 加納

 3年間で最下位2回という成績では如何ともしがたく、宮本監督は退陣。しかし後任監督には適当な候補がおらず、難航の末コーチ陣最年長の伊藤投手コーチが監督に昇格した。

 空いた投手コーチには田辺和隆が就任することになった。内野守備走塁コーチとして吉原克正が加入、高橋が兼任を解かれ打撃コーチ補佐となった。また、斉藤投手コーチ補佐がフロント入りした。

 シーズン結果は最下位。もともと「つなぎ」の意識の強かった伊藤監督はシーズン終了後に辞意を表明。奈良S史上初めて1年での監督交代となった。

宮本監督時代

ポスト 261 262 263
監督 宮本
ヘッド 森口 大槻
打撃 大槻 佐野
投手 伊藤
投手補佐 斉藤一
バッテリー 徳永
内野守備兼打撃補佐 高橋
外野守備走塁 木村
野手育成 デービス
投手育成 加納

 2度の優勝を果たした岡澤に代わって監督に就任したのは、フロント組の宮本克義だった。コーチ経験のない人間が監督に就任するのは、生え抜きとしては初のことであった。現場との連携がうまくいくかどうかが重要視され、退団をほのめかしていた森口ヘッドコーチは残留を要請され、これを受けることになった。

 また、瀬戸打撃コーチが退団、野手育成コーチの大槻が打撃コーチにまわり、野手育成コーチにはデービス野手総合コーチが就いて再び野手総合コーチは廃止された。これに伴い内野守備コーチが復活、高橋寛治が打撃コーチ補佐と兼任で就任した。

 しかし初年度は42年ぶりの最下位転落。これを理由として森口ヘッドコーチは退団。大槻打撃コーチがヘッドコーチに昇格し打撃コーチの後任には佐野和彦が就任した。

岡澤監督時代

ポスト 254 255 256 257 258 259 260
監督 岡澤
ヘッド 石野 森口
打撃 瀬戸
打撃補佐 大槻
投手 伊藤
投手補佐 斉藤一
バッテリー 森口 徳永
内野守備走塁 勝枝
外野守備走塁 木村
野手総合 デービス
野手育成 青山 大槻
投手育成 加納

 リーグ再編後低迷した結果黒田は解任。後任には岡澤が打撃コーチから昇格した。空いた打撃コーチには瀬戸憲明が、また打撃コーチ補佐として大槻照幸が就任した。その他のコーチ陣はすべて残留となった。

 2年目の255年度からは、コーチ陣も大幅に刷新された。石野・青山が退団、後を受けて森口がヘッドコーチに、そして大槻が野手育成コーチに動き、バッテリーコーチには徳永貞治が就任した。また、大槻の後の打撃コーチ補佐は空白となったが、新たに斉藤一樹が投手コーチ補佐として入った。

 続く256年度には勝枝が退団し、昨年引退したP.デービスが野手総合コーチとして入団、W.フォーブス以来65年ぶりのポスト復活である。その後は動きなく、この布陣で257年度・259年度と2度の優勝を成し遂げた。しかし260年度に5位に転落すると、岡澤は辞任を表明した。

黒田監督時代

ポスト 248 249 250 251 252 253
監督 黒田
ヘッド 石野
打撃 岡澤
打撃補佐 青山
投手 伊藤
投手補佐 加納
バッテリー 森口
内野守備走塁 勝枝
外野守備走塁 木村
野手育成 青山
投手育成 日高 加納

 優勝を逸した大西が勇退を発表、後任はヘッドコーチの黒田が昇格した。また、ヘッドコーチにはバッテリーコーチだった石野が昇格した。そして空いたバッテリーコーチには森口正克が就任した。

 児玉打撃、榊原投手の両コーチが退団、後任は打撃が岡澤が補佐から昇格、投手には伊藤敏彦が就任してぐっと若返った。岡澤は外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐という長いポスト名だったが、外野守備走塁コーチには木村光孝が現役のまま就任、打撃コーチ補佐のほうは青山猛が就任した。

 1年目を3位で終えた後、渡が退団を表明。打撃補佐の青山が後任に就いた。また、投手補佐コーチとして新たに加納憲が入団した。

 250年度には、木村が現役を引退、コーチ専任となった。また、リーグ構成の変わった251年度からは、日高が退団し加納が投手育成コーチに昇格した。

大西監督時代

ポスト 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247
監督 大西
ヘッド 金子 黒田
打撃 児玉
打撃補佐 岡澤
投手 榊原
バッテリー 石野
内野守備走塁 黒田 勝枝
外野守備走塁 夕崎 岡澤
野手育成
投手育成 日高

 大西がヘッドコーチから昇格、新体制で挑むことになった。空いたヘッドコーチにはかつて内野守備走塁コーチを務めた金子が復帰、また打撃コーチは倉本からチーム屈指の強打者だった児玉一浩に変わり、打線強化に重点が置かれることになった。

 その後6年間は動きがなく、244年度からは金子が退団して黒田がヘッドコーチに昇格、勝枝智男が内野守備走塁コーチに就任した。

 長期政権の末、9年目の246年に久々のディビジョン優勝を果たしたが、そのオフに夕崎が退団を表明した。注目された後任は、なんと強打者だった岡澤幸一。打撃コーチ補佐兼任での復帰となった。

若松監督時代

ポスト 235 236 237
監督 若松
ヘッド 大西
打撃 倉本
投手 榊原
バッテリー 石野
内野守備走塁 黒田
外野守備走塁 夕崎
野手育成
投手育成 日高

 かつて投手コーチとして活躍し、その後日本海監督として手腕を振るった若松が監督として帰ってきた。これに伴い、コーチ陣も若干若返りが進められた。岡田バッテリーコーチと金子内野守備走塁コーチが退団、代わりに石野友道がバッテリーコーチに、黒田久が内野守備走塁コーチに就任した。

 また、浅香弟投手育成コーチも退団、日高が投手コーチ補佐から昇格した。これによりコーチ補佐がいなくなり、ひさびさに9人のコンパクトな体制となった。その後3年間全くスタッフが変わることなく続け、大西にバトンタッチした。

吉田監督時代

ポスト 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234
監督 吉田
ヘッド 片山 大西
打撃 倉本
打撃補佐
投手 若松 榊原
投手補佐 榊原 浅香弟 日高
バッテリー 岡田
内野守備走塁 金子
外野守備走塁 夕崎
野手育成 大西
投手育成 大枝 浅香弟

 ワンポイントの責任を果たした今井監督が勇退し、吉田がヘッド兼打撃コーチから昇格することになった。空いたヘッドコーチには片山野手育成コーチが転身、野手育成コーチには大西打撃コーチ補佐が昇格した。補佐コーチなし9人のコンパクトな体制でのスタートとなった。

 しかし、9人態勢ながらチームは飛躍的な成長を遂げ、224年度からマリーンディビジョンを連覇、225年度には悲願のファイナル制覇を達成することになる。

 226年度には現役を引退した榊原昌宏が投手コーチ補佐として就任、2年後に若松が日本海に監督として招かれると、投手コーチに昇格した。また、230年度には浅香保が投手コーチ補佐に就任、翌年からは投手育成コーチに昇格した。渡敬一郎も230年度から打撃コーチ補佐に就任している。

 234年度には片山の退団に伴い、大西がヘッドに昇格、渡が野手育成コーチに転任した。また、日高篤志が投手コーチ補佐として復帰したが、この年Vを逸した吉田はこれを機に退陣することになった。

今井監督時代

ポスト 221 222
監督 今井
ヘッド 吉田
打撃 吉田・倉本
打撃補佐 大西
投手 若松
バッテリー 岡田
内野守備走塁 金子
外野守備走塁 夕崎
野手育成 片山
投手育成 大枝

 大内監督の辞任を受けると、後任監督の不在に悩まされた。どのコーチも若く、前監督時代の若返り策が裏目に出た格好となった。窮余の一策として、他球団の監督経験者を招聘することに決まり、元駿府の今井雄二氏に監督就任を要請、1年契約で今井監督の誕生となった。監督自身がワンポイントであることを意識したためか、コーチ陣は全てそのまま残留となった。

 1年契約だったのが、成績が良かったこともあり、2年目も続投で合意した。その際、打線強化を図るため、大西健太が打撃コーチ補佐として入団した。打撃コーチ2人に補佐1人という分厚い体制となった。

大内監督時代

ポスト 218 219 220
監督 大内
ヘッド 後藤 吉田
打撃 後藤・吉田 吉田・倉本
打撃補佐 倉本
投手 若松
バッテリー 岡田
内野守備 河野
内野守備走塁 金子
外野守備走塁 夕崎
野手育成 片山
投手育成 大枝

 後藤監督が不振の責任をとって辞任した。後任には投手コーチの大内が昇格したが、コーチ陣は大移動が行われた。まず、大内の後釜には若松隆久がコーチ補佐から昇格、投手コーチ補佐は再び空白となった。そして、揉めたのがヘッドコーチの人選だった。

 後藤監督の退陣を受けて、遠藤ヘッドコーチも退団することになった。しかし、後任のヘッドコーチの人選に悩んだ結果、なんと当の後藤に残留を要請、結局後藤が打撃コーチ兼任で留まることになった。監督経験者が再びコーチに就任するのは異例のことである。

 また、古河打撃コーチの退団もあり、吉田打撃コーチ補佐もまた昇格、倉本勝が打撃コーチ補佐として復帰し、3人体制で打線の強化に務めることになった。さらに岡村・浜川の両コーチが退団。河野修司が内野守備コーチ、夕崎敏夫が外野守備走塁コーチとして復帰し、守備コーチの総入れ替えとなった。

 以上のような大幅入れ替えを行ったコーチ陣であるが、後藤は年齢もあり219年度限りで退団、ヘッドコーチには吉田が打撃兼任で昇格した。39歳と異例の若さである。これに伴い、倉本が打撃コーチ補佐から打撃コーチに昇格している。

 また、河野コーチが解雇され、金子昌弘が内野守備走塁コーチとして入団した。河野コーチの解雇は内野守備力の低下を招いたためとされ、また金子コーチは手腕を多いに発揮した。しかし、シーズン中から大内監督の体調が優れず、チームも低迷したことから、この年限りでの退陣となった。

後藤監督時代

ポスト 213 214 215 216 217
監督 後藤
ヘッド 遠藤
打撃 古河
打撃補佐 吉田
投手 大内
投手補佐 大枝 若松
バッテリー 鹿島 岡田
内野守備走塁 岡村
外野守備 浜川
野手育成 片山
投手育成 睦島 大枝

 河野監督の勇退を受け、打撃コーチの後藤が監督に昇格、再びOB監督となった。さらにコーチ陣の異動も大きく、遠藤が野手育成コーチからヘッドコーチに回り、打撃コーチ補佐だった片山が野手育成コーチに就任した。

 後藤に代わる打撃コーチには古河猛が復帰し、打撃コーチ補佐に吉田勇介、6年ぶりの復活となる投手コーチ補佐には大枝弘紀が、それぞれ復帰した。

 2年間はこのメンバーだったが、214年度を最後に睦島と鹿島が退団することになり、投手育成コーチには大枝が回り、バッテリーコーチには引退した岡田利雄がそのまま就任した。これにより投手コーチ補佐は空白となったが、217年度に若松隆久が就任した。

河野監督時代

ポスト 208 209 210 211 212
監督 河野
ヘッド 堀場
打撃 後藤
打撃補佐 片山
投手 大内
バッテリー 鹿島
内野守備走塁 岡村
外野守備 浜川
野手育成 遠藤
投手育成 睦島

 再びの外部招聘は、これもかつてレンタルで1年間在籍した高崎の河野大助が就任することになった。若手の育成と守備力の強化を課題としたが、佐渡が投手コーチを辞め、代わりに大内が投手コーチ補佐から昇格したのが唯一の動きであった。

 しかし、守備力よりもむしろ打線強化の面が課題となり、209年度からは片山英樹が打撃コーチ補佐として就任した。200年度以来、9年ぶりのポスト復活である。河野監督時代の異動はこれだけで、Aクラス4度の安定した成績も相俟って、全く平穏であった。

佐伯監督時代

ポスト 204 205 206 207
監督 佐伯
ヘッド 堀場
打撃 後藤
投手 佐渡
投手補佐 大内
バッテリー 鹿島
内野守備走塁 遠藤 岡村
外野守備 浜川
野手育成 大村 遠藤
投手育成 睦島

 基本的にヘッドコーチから昇格するのが一般的なケースで、外野守備コーチからの昇格というのは異例である。守備力の強化と投手陣の育成を目標にした布陣となった。その投手陣育成の要になる投手育成コーチは、28年間在籍していた豊沼にみっちり仕込まれた睦島が就任、空いた投手コーチ補佐には大内武誠が就任した。

 守備コーチは内野が遠藤信治・外野が浜川亘弘と一新、また、堀場がヘッド専任となり、打撃コーチには後藤が復帰した。また、投手コーチも佐渡治隆に代わるなど、大幅な入れ替えとなった。動かなかったのはバッテリーコーチの鹿島と野手育成コーチの大村だけである。

 その大村も、年齢もあって2年で退団、遠藤が内野守備走塁コーチから野手育成コーチに転任した。遠藤の後釜には、現役を引退した岡村尚人がそのまま就任した。これ以外に動きはなかったが、期待に反して4年連続最下位の苦難を味わい、初代松原監督以来の4年での退陣となった。

昭栄監督時代

ポスト 197 198 199 200 201 202 203
監督 昭栄
ヘッド 堀場
打撃 堀場
打撃補佐 後藤
投手 梅谷
投手補佐 睦島
バッテリー 鹿島
バッテリー補佐 山本
内野守備走塁 上田
外野守備 佐伯
野手育成 大村
投手育成 豊沼

 外部からの招聘とは言え、昭栄邦彦もOBである。投手陣の立て直しのため、5年ぶりに投手コーチ補佐が復活、睦島建志がそのポストについた。高山・加藤正・阿部・吉井の4コーチが退団、代わりにヘッド兼打撃コーチとして堀場通孝が入った。これを支える打撃コーチ補佐には後藤巧が現役兼任で就任。バッテリーコーチには鹿島が復帰した。

 バッテリーコーチ補佐に就任した山本美尋は、球団側の不手際で現役兼任ながら二軍帯同ということになり、苦渋の選択となった。だが、これで投手3人・捕手2人のコーチ陣がつくことになり、投手力強化を目指す布陣となった。

 山本が198年度限りで退団したのと、後藤が引退ともにコーチ補佐の座を退いたこと以外は、コーチ陣の変動が全くなかった。高木監督時代以来の平穏な時期であった。

岡江監督時代

ポスト 192 193 194 195 196
監督 岡江
ヘッド 高山
打撃 加藤正
打撃補佐 高峰秋
投手 梅谷
投手補佐 阿部
トレーニング 阿部
バッテリー 吉井
バッテリー補佐 鹿島 小雲
内野守備走塁 上田
外野守備 佐伯
野手育成 大村
投手育成 豊沼

 岡江がヘッドコーチから監督に昇格、高木と同じである。この結果、打撃コーチは加藤正だけになった。空いたヘッドコーチには高山が抜擢され、内野守備走塁コーチには上田義明が就任した。

 関根が退団して梅谷が投手コーチに昇格、投手コーチ補佐には阿部哲也が就任した。また、W.フォーブスの退団に伴い、野手総合コーチのポストが廃止されて外野守備コーチのポストが復活、佐伯優一が現役兼任で任についた。また、鹿島実が引退し、バッテリーコーチ補佐のポストについた。

 193年度には、鹿島が退団して代わりに小雲光家がバッテリーコーチ補佐に就任した。さらに、阿部が投手コーチ補佐からトレーニングコーチに転任、投手コーチ補佐のポストが空くことになった。また、佐伯が現役を引退し、コーチ一本になった。

 194年度には高峰秋良が現役兼任で打撃コーチ補佐に就任したが、2年で退団した。また、小雲はスカウトに転向し、バッテリーコーチ補佐のポストはわずか2年で廃止された。

 なお、この間スカウト部も大きく変動しており、谷村章男・村田透といったベテランスカウトが退団、米田稔がチーフスカウトになり、熊野保・沢野洋輔・加藤久友・小雲の4人がスカウトとして活動している。

高木監督時代

ポスト 186 187 188 189 190 191
監督 高木
ヘッド 岡江
打撃 岡江 岡江・加藤正
打撃補佐 加藤正
投手 関根
投手補佐 梅谷
バッテリー 吉井
内野守備走塁 高山
野手総合 フォーブス
野手育成 大村
投手育成 豊沼

 高木がヘッドコーチから監督に昇格、初のチーム生え抜き監督となった。空いたヘッドコーチは岡江が兼任、また、バッテリーコーチが野田から吉井明に代わった。

 186年度を限りに加藤正が現役を引退、打撃コーチに昇格して専任となった。また、岡江も打撃コーチを兼任し、2人体勢となった。これにより打撃コーチ補佐は廃止された。

 その後は高木の監督辞任まで全く動きはなく、一番の平穏期であったといえる。

大垣監督時代

ポスト 180 181 182 183 184 185
監督 大垣
ヘッド 高木
打撃 岡江
打撃補佐 加藤正
投手 関根
投手補佐 梅谷
バッテリー 野田
内野守備走塁 高山
守備走塁補佐 池田
外野守備 弘崎 大村
野手総合 フォーブス
野手育成 佐倉 大村
投手育成 豊沼

 大きな枠組みは変わらなかったが、メンバーは大きく変わることになった。体調を崩した米田がスカウトに転出し、内野守備走塁コーチには高山恭一が入った。また、外野守備コーチも、酒田に代わって弘崎繁男が就任した。8年間投手コーチを務めてきた島田も退団、関根が投手コーチ補佐から昇格した。

 引退した池田は守備走塁コーチ補佐に、同じく引退した梅谷徹が投手コーチ補佐になった。また、加藤正友も打撃コーチ補佐になったが、最初は引退するはずであったのが現役続行となり、兼任コーチとなった。

 181年度には野手総合コーチが新設され、W.フォーブスが就任した。外野守備を中心に打撃・走塁などを全般的に見るもので、これに伴って池田・弘崎の2人が退団した。

 183年度は外野守備コーチが再設置され、大村健一がこれに就いた。その大村は、185年度から佐倉に代わって野手育成コーチに就き、外野守備コーチは廃止された。

北辺監督時代

ポスト 175 176 177 178 179
監督 北辺
ヘッド 高木
打撃 高木 岡江
打撃補佐 裕野
投手 島田
投手補佐 豊沼 関根
バッテリー 野田
守備走塁 米田
内野守備走塁 米田
内野守備 池田
外野守備 酒田
野手育成 佐倉
投手育成 山口 豊沼

 新監督となって、布陣も大幅に変わった。谷村・村田がスカウトに転向、高木がヘッド兼任打撃コーチとなり、それに従い裕野守雄が打撃コーチ補佐に就任した。また、打撃投手の古川が広報に転出、豊沼浩史が投手コーチ補佐となって、打撃投手役も兼ねることになった。

 また、守備走塁コーチが新設されて米田稔が就任、育成コーチも野手育成コーチと投手育成コーチに完全に分けられ、野手は引き続き佐倉が、投手は山口貴次が担当することになった。

 176年度には山口が退団、豊沼が投手育成コーチに転向した。また、岡江武彦が現役を退いて打撃コーチに就任、高木がヘッド専任となったことにより、裕野が退団した。

 177年度からは、守備走塁コーチが内野と外野に分担されることになり、内野は米田がそのまま、外野は酒田時雄がそれぞれ担当することになった。また、関根哲朗が投手コーチ補佐となり、打撃投手も行った。

 その後2年はコーチ陣にもほとんど異動がなく、静かな時期であった。ただ、179年度に米田が体調を崩すことがあり、それを補う形で池田信弘が現役のまま、内野守備コーチを兼任することになった。

松原監督時代

ポスト 171 172 173 174
監督 松原
ヘッド 谷村
打撃 谷村 高木
投手 村田 島田
育成 田中伸 佐倉 佐倉・村田
バッテリー 野田
打撃投手 古川

 当初はコーチ3人でスタート、当初から二軍の若手を担当する育成コーチがいたのが特徴であった。ヘッドコーチはいなかったが、谷村章男打撃コーチがヘッド格としてあたった。

 谷村は、172年度から正式にヘッドコーチとなる。この年コーチに就いた高木勝幸・島田利幸・佐倉良次郎の3人は、コーチ陣の中心として、その後長くコーチ業を続けることになる。

 173年度にはバッテリーコーチが新設されて引退した野田貴行が就任、また故障で引退を余儀なくされた古川守が打撃投手として採用された。古川は2年間打撃投手を務めたが、その後は打撃投手は採用されていない。

 174年度から、投手陣育成を進めるべく、育成コーチを野手担当と投手担当に分けることになり、村田透が投手担当の育成コーチとして復帰した。