[BRM]

中継ぎセーブ


当館で表示される記録は個人で入力しているものであり、したがって間違いも決して少ないとはいえない。それでも折に触れ、タテにヨコにといろいろな方法でチェックをかけては、誤りを洗い出すようにしている。そんな中で思わず見つけた希少な記録を、ひとつご紹介したい。

なお、この記事はさる所にて既に公表していたものであるが、今回の企画に合わせて校訂を加えたものである。


1974年にセーブ記録が導入されて今年で37年目、もはやプロ野球にすっかり定着した項目となっている。リリーフ投手に脚光を当てるべく導入されたこの制度は、リリーフ投手をさらに中継ぎ投手と抑え投手に分化させる流れを制度面から支えてきた。

現在では、一度は救援勝利と合わせたセーブポイントが表彰の対象となっていたものが、再びセーブのみが表彰対象となったように、クローザーの活躍度合いを測る基礎的な記録として欠かせないものとなっている。

セーブがつく条件に関する規則は、制度の導入以後何度か改訂がなされている。この改訂の過程で有名なのが、日本ハムのエース高橋直樹にまつわるエピソードだろう。

1974年8月18日の近鉄戦に先発した高橋は6回、2死1塁で打席にジョーンズを迎える。この年規定打席最下位ながら本塁打王を獲得した一発屋に対し、カウント0-2となったところで、中西太監督は投手を左の中原勇にスイッチさせたが、ここで高橋を退かせず、サードに入れた。中原は結局ジョーンズを歩かせたが、その後高橋が再びマウンドに戻り後続を絶った。

この試合は結局日本ハムが勝利したが、高橋は先発でリードして5回を投げたため勝利投手になり、かつリリーフして最後まで投げたためセーブもつくこととなった。これはおかしいというので翌1975年から規則が改訂され、勝利投手にはセーブがつかないこととなった。このため高橋の記録は史上唯一のケースとなった。

以上のエピソードは良く知られているが、実はこの1975年に、もう一つセーブにまつわる珍記録が残っているのは知られていない。この記録もまた日本ハムで生まれたもので、さらに翌1976年の規則改訂により史上唯一のケースとなったという点まで一致しているのも奇遇である。

高橋の記録からほぼ1年後の1975年8月15日、日本ハム南海と後期4回戦を戦っていた。日本ハムは先発の野村収が好調で、南海打線を7回まで3安打無失点に抑えると、打線は4回に渋谷通が、5回には岡持和彦が、それぞれソロ本塁打を放ち、6回にも加点して3-0と快勝ペースだった。

しかし8回に野村が捕まる。疲れが出てきたのか、3安打にエラーも絡んで1点を失い、なお2死満塁のピンチで、打席に3番門田博光を迎える。ここで中西監督は、左のワンポイントリリーフとして小坂敏彦を送り込む。一打同点・一発逆転の場面であったが、小坂は門田を三振に斬って取り、見事期待に応えた。

9回には抑えの切り札皆川康夫が登板、2安打されるもなんとか切り抜け、結局3-1で日本ハムの勝利となった。

終盤の見所こそあったがこれだけでは取り立ててなんの変哲もないこの試合、勝ち投手は野村だが、セーブは皆川ではなく小坂についた。現在の感覚だと「皆川はセーブの条件も満たしているし、何より試合の最後に投げたのに、なぜ中継ぎの小坂につくのか?」というところであるが、実は当時のセーブの規定には、試合の最後に投げた投手、という条件はない。

「自チームがリードしているときに出場した救援投手が、塁上に残された走者か相対する打者が得点すればタイまたはビハインドになるのを防いで、リードを守った場合、あるいは最低三回、リードを守るのに有効な投球をした場合には、この救援投手にセーブの記録を与える。」

とあるのみで、いわば現在ならホールドが与えられるケースでもセーブが与えられる場合があったのである。

当然これでは複数の投手にセーブがつく可能性が出てくるが、

「・・・二人以上いた場合には、最も有効な投球を行ったと記録員が判断した一救援投手にセーブの記録を与える。」

とされていた。つまりこの試合、皆川より小坂のほうが有効と記録員が判断したわけで、これは試合展開を追ってみれば妥当なものといえよう。

当時の規則が以上のようなものであったからには、他にも中継ぎ登板でセーブのついたケースはあると思われ、これだけでは珍記録とは言えない。だが、小坂の場合が珍しいのはこの後である。

8月中は左の中継ぎとして投げていた小坂だが、9月にはいると途端に出番がなくなり、9月19日に17試合ぶりに登板したのが件の南海戦、この試合では確かに試合の最後を締めくくり、2セーブ目を挙げた。

この2セーブが、この年の小坂のセーブのすべてであったのだが、実は小坂が試合の最後に登板したのは、この9月の2セーブ目の試合だけであった。それ以外の登板はすべて中継ぎで投げていたわけである。そのため、このシーズンの小坂の記録は「交代完了1、セーブ2」となっている。シーズン記録においてセーブ数が交代完了を上回った唯一のケースである。

そして翌年、セーブの規定に「自チームが勝を得た試合の最後を投げ切った投手」という一文が追加され、小坂の記録もまた史上唯一のケースとなったのである。

これは、「交代完了よりセーブ数が多い」ケースをチェックする中で偶然発見された記録である。このように、埋もれた記録を発掘することは、記録好きにとってはたまらない喜びではないだろうか。そしてまた失礼ながら、小坂敏彦という埋もれた選手も、この記録によってその一面が発掘されたと言えるだろう。

過去の記録の中には、我々が気づいていない、あるいは忘れ去られた記録がまだまだあるのだということを知る時、なんだか既に知ったような気になっている事柄も、俄然新たな色を帯びてくる。当館では、そういった新たな色を少しでも多く見つけられたら、と思いつつ、今日も誤りを探す作業をしている。


written by Seiichi Suzuki, at 2010. 8. 9. / updated at 2010. 8. 9.