米子城をゆく
 米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった城郭である。久米城、湊山城ともいう。
前身は文明3年(1471)に、出雲の京極氏に対する国境の城として、伯耆の守護であった山名教之の配下により飯山砦が築かれた。大永4年(1524)、尼子氏に攻略されたが、尼子氏が滅亡すると、天正6年(1578)、毛利一族の吉川元春が米子を支配下におさめ、古引吉種を守将とした。天正19年(1591)吉川広家(元春の三男)が月山富田城に入ったが、山城は不便なので米子湊山に新城を構築した。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将であった毛利輝元が大幅減封されると、吉川広家も周防国岩国に移り、替わって中村一忠が17万5千千石で入城したが後広家は岩国(岩国城)へ移り、中村一忠(豊臣政権三中老のひとり中村一氏の子)が入封した。堀には中海から海水を引き込み浮城の体をとり、本丸や二の丸とうとうに独立させた機能を整えさせた。また、吉川氏の時代に本丸に聳えた4重の天守があったが、一忠はその横に5重の大天守を建てた。工事責任者は家老の横山内膳であったという。慶長15年(1610)、一忠亡き後、継嗣なく中村氏は改易となる。
美濃黒野(岐阜県)から加藤貞泰が6万石で入城するも、元和3年(1617)大阪夏の陣の戦功で貞泰が伊予大洲(大洲城)へ移封。翌年、因幡・伯耆両国の領主となった池田光政が32万石で鳥取城へ入ると、同族の池田由之が城代となる。寛永9年(1632)光政は岡山(岡山城)の池田光仲と交替。光仲の家老荒尾利成が入城。以後荒尾氏が230年間11代在城する。
 
撮影  2009.03.18 
米子城への登城は表示によれば3ヶ所あるが、湊山公園からの登山道コースから登城した。
湊山登山道入り口 
石段の登山道を登る
 
中腹にある表示板 (左へ行くと「内膳丸跡」へ・右に行くと「本丸跡」・下へ行くと「二の丸跡へと続く)
 
左へ進み「内膳丸」へと登る石段
 
内膳丸跡 
 湊山の隣の峰の丸山に築かれた郭で、中村一忠の家老・横田内膳が監督して造ったことから「内膳丸」と呼ばれ、本丸の守りを強化する役目を果たした。途中石垣で2段に区画されている。(写真は下の段)
 
内膳丸上段の区画(正面に休憩所がある)
 
内膳丸から戻り右側へ進む本丸への石段
 
石段を登ると本丸の石垣が見える。
 
 本丸への枡形虎口
 
 本丸天主台の4段構造になっている石垣
 
 本丸の石垣
 
本丸の東側下段にある番所郭跡 
 
 鉄御門へ続く石段丸へのの 
 
 鉄御門跡
間口5間(12.72m)、奥行2間半(4.5m)の規模で、鉄張りの堅固な門であった  
 
 鉄御門跡の石垣  
 
 鉄御門の虎口を上から眺める 
 
鉄門石垣上段から米子市内を眺める
 
 天主台の石垣と帯曲輪
 
 天守台の礎石
 
礎石越しに眺めた米子市内
 
 本丸の小天守台跡
 
天主台から眺めた「内膳丸」跡
 
 本丸から見た美保湾方面
 
 本丸北側の虎口
 

本丸北西に造られた水手御門跡。ここから出山付近に設けられた船小屋へと通じる道があった。 

 中海に向かってせり出すように構築された遠見櫓跡。平屋櫓(7.27×9メートル)と二重櫓(3.63×3.63メートルが建てられており、着見櫓とも呼ばれた。
 
 本丸西側の通路状の帯曲輪の石垣
 
御殿御用井戸跡   御殿の用水として使う車井戸であった。
 

二の丸裏御門跡。櫓門の二階には大太鼓が置かれており、太鼓御門とも呼ばれた。

 
 二の丸跡 (現在はテニスコートになっている)
 
 二の丸下の段に移築されている小原家長屋門
 小原家の屋敷は西町にあったもので、鳥取藩の米子城預かりであった主席家老・荒尾氏の家臣で禄高は120石であった。建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84㎡余りであつた。大扉の向かって右側に一室、左側に2室あって、その上は一部低い中2階になっている。
 
 湊山の北東山裾の二の丸に残る枡形虎口
枡形広場は、東西25.44m、南北22.72mの広さです
 
 枡形虎口に置かれている城址標柱と配置案内図
 
 米子城の遠景(山頂に本丸の石垣が眺められる)
 
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