熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。
城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられます。この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。
 大銀杏(おおいちょう)
 熊本城は別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」といい、その名前はこの大銀杏に由来します。清正(きよまさ)公が築城の際にお手植えになったと伝えられ、また、清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。
西出丸 
西出丸を守る建造群。平成15年に復元された箇所で、写真中央の櫓は戌亥櫓。  
 西大手門
 熊本城は西・南・北の3つの大手門を持ち、その中で最も格式の高い門とされます。寛永9年(1632年)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利(ほそかわただとし)は、この門の前で衣冠束帯(いかんそくたい)のまま駕籠(かご)を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真中を通らず、端を通るようになったと言われています。
 宇土櫓 【重要文化財】
 これが天守といわれてもまったく違和感の無い外観三重、内部5階、地下一階の五階櫓。壮大な千鳥波風を付け、さらに最上階には回廊まで設けるという力の入れよう。現存しているのが本当に有難い存在。ある意味で熊本城一難の見所。なお、宇土城からの移築という説があったが、現在は否定する意見が大勢を占めている。
 五郎の首掛石
築城当時、横手五郎は伝説上の怪力の持ち主で、父は木山弾正と言い、天正17年の天草一揆のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正と一騎打ちをして戦死を遂げました。五郎は成人の後、清正を仇と狙い築城人夫に身をやつし機会を狙っていましたが、やがてその素性を見破られ、井戸掘りをしている時に生き埋めにされたと言われています。この石は1800キログラムであるが、築城当時怪力の横手五郎が首に掛けて運んだと言われている所から来たものだそうです。
 井戸
 清正は文禄・慶長の役のとき、蔚山城(うるさんじょう)で明(みん)・朝鮮連合軍を相手に、「泥水をすすり、死馬の肉を喰らう」という苦しい籠城戦(ろうじょうせん)を体験しました。その経験から熊本城を築城するにあたり、籠城の備えを万全にしました。井戸もそのひとつで城内に120以上掘られたと言われています。また、大量の米や海草の干物などを櫓に蓄え、薪にするため成長の早いエノキやムクなどをたくさん植えたと言われています。
 北の丸の井戸
 大小天守石垣の違い
 熊本城の石垣は「清正流(きよまさりゅう)石垣」「扇の勾配(おおぎのこうばい)」「武者返し(むしゃがえし)の石垣」などと称されます。清正は穴生衆(あのうしゅう)と呼ばれる近江の石工集団を使い石垣を積んだと言われています。その技法は「打ち込みハギ」と呼ばれ、石を叩いて積みやすく加工し、石と石の間には割り石を打ち込みより堅牢になるように、また手がかりを少なくし登りにくくする工夫をした積み方です。
 数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)
主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓(うとやぐら)と同規模の数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。 
現在の建物は平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元されたものです。
本丸御殿(西側)
 本丸御殿闇(くらが)り御門
  闇り通路(くらがりつうろ)
  本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路を有する特異な構造となっています。御殿への正式な入口であり、 「闇り通路」と呼ばれています。
このような地下通路を持つ御殿建築は全国にもあまり例がありません。
本丸御殿の地下通路の出口
本丸御殿への枡形
 お城の石段を歩いてみると、とても歩きにくいことに気付きます。よく観察すると段の高さと奥行きが少しずつ変えてあるのです。これは意図的に配置されたもので、歩幅をわざと変えさせ、スムーズな進軍を阻止するためです。熊本城はこういう所にも工夫がされているからこそ名城と言えるのです。
 飯田丸から竹ノ丸にかけて、何重にも枡形が配置されている。これまたものすごい堅固さである。
 質部屋跡
二様の石垣
熊本城の石垣は全て「打ち込みハギ」という工法で積まれています。この二様の石垣は同じ打ち込みハギでも隅石(石垣の角)の積み方に違いがあり、傾斜の緩い方は同じような大きさの隅石を使っており、築城初期のものと思われ、傾斜が急な外側の石垣は、長方体の石の長辺と短辺を交互に組み合わせることにより、より急な角度を出すことができる「算木積み(さんぎづみ)」という工法が開発された後のものです。 
 平御櫓
 櫓群
熊本城本丸内東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されています。
南から田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源乃進櫓(げんのしんやぐら)、少し間を置いて東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)と続きます。
 五輪塔
 五輪塔は仏教の五輪五大の思想を石造塔で表現したもので、平安時代頃から作りはじめられ、鎌倉、室町、戦国時代に最も多く造られています。元来は供養塔であったが墓塔としたものもあります。
 不開門(あかずのもん)
 この門は城の鬼門である北東に位置します。昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われています。
 竹の丸より天守を望む
 石垣だけでも非常に堅固であることが一目でわかる構成。かつてはここに、竹の丸五重櫓や、数々の門・櫓が存在しており鉄壁の守りだった。
 堅固に石垣に囲まれた竹之丸にある井戸
 二の丸広場から見た熊本城天守群
正面に戌亥櫓、真ん中に宇土櫓、奥に天守閣が見えます。
 二の丸広場から見た熊本城天守群
手前の石垣の上に長塀が繋がり、正面 右に大天守、真ん中に宇土櫓、左に小天守が見えます。
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熊本城をゆく
撮影   2009.03.27