大手道の石段
安土城をゆく
織田信長は、自身の夢である「天下布武」(てんかふぶ)を実現する一歩として安土城を築いた。安土城は、城郭史に止まらず、過去の日本建築史上の建造物を凌駕する壮大さと華麗さを兼ね備えており、湖畔にそびえ立つ信長の城をみた人々は、その主が天下人であることを思い知らされたのではないかと思われる。
信長と安土との「出会い」は、築城工事開始の8年前、上洛戦のおりに観音寺城(安土町石寺)を攻めた時にさかのぼる。
六角義賢(よしたか)が立て籠もる観音寺城はわずか一日で攻略されたが、信長は城内の堅固な石垣に目を見張るとともに、観音寺山を主峰とし、琵琶湖へ突き出すようにのびる安土山に着目した。
長篠合戦に勝利を収め、天下布武へ着実な前進を続けた信長は、1576年(天正4)安土山に、天下人の居城に相応しい巨大城郭の建築を開始した。
3年後には天主(天守)の建設工事も終わり、信長の夢の城は完成した。
1582年(天正10)、信長は甲斐(山梨県)の武田氏を滅亡へと導き、天下統一を目前にしながら、本能寺の変により、非業の最期を遂げた。
山崎合戦ののち、安土城は何者かが放った火によって火災が発生し、天主や本丸の御殿は紅蓮の炎に包まれ、信長の夢の城は、3年もただずして地上から姿を消した。
江戸時代には、「ハ見寺(そうけんじ)」の寺領となり、一種の聖域として保護された。
現在安土城は、国の特別史跡に指定されるとともに、発掘調査が続けられており、謎多き全容が徐々に解明されつつある。
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