安土城を行く
       黒金門跡
写真は、安土城中枢部への主要な入口である黒金門の跡である。周囲の石垣は石塁や郭石垣に比べると、使われている石の大きさに驚かされます。
平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主と共に火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。
壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近達と日常生活を送っていた。
高く聳える天主を中心に
本丸・二の丸・三の丸等主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。
東西180m・南北100mに及ぶその周辺は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲から屹立しています。
高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数ヶ所設けられいます。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入口なのです。
         本丸跡
天主台を眼前に仰ぐこの場所は、千畳敷と呼ばれ安土城本丸御殿の跡と伝えられています。東西約50m・南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸・帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向ってのみ展望が開けています。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西34m×南北24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな碁石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸(12〜18cm)の柱を6尺5寸(約1.97cm)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。
礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることが分かりました。
西方の清涼殿風の建物は、蜜に建ち並んでだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったと思われる。
なぜ、安土城天主の真下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか?
「信長公記」には天主近くに「一天の君・万葉の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のためのに信長が用意した行幸御殿だったのではないかと思われます。


            天主の礎石群
安土城の天主の形状は、吹き抜け空間があったという説など、諸説があって定かではありません。
石垣の上から全体を見回してみると、基礎部分が不等辺八角形であることがかろうじて分かります。


          二の丸の織田信長廟所

本能寺の変で自害した信長の遺骸は一片の骨も見つけられず、大徳寺を始め、信長を祀る廟所や墓には遺骨は埋葬されていない。
安土城の廟所は、羽柴秀吉が信長の一周忌に造営したものである。
周囲は、厳粛で静寂な雰囲気が漂っている。











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