岐阜城をゆく
金華山山頂にある、標高338mを示す石碑
   天下第一の門



旧三の丸付近に新造された門。
1567年(永禄10)9月初日、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。
稲葉山の城郭を再建するとともに、城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。
又信長は「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城となつた。

信長の大志を讃えるるとともに、「天下」という言葉を好んだ信長の偉業を伝えるために冠木門を建てたものである。。

 
   上格子門跡(あげこうしもん)

城下の大手門から急坂な大手道(七曲道)を上がってきたここに「上格子門」が建っていた。
東(右手)には大きな岩塊、西(左手)には切り立った岸壁がそびえたち、頂に七間櫓が築かれていた要害の場所である。
上格子門では、1600年(慶長5)8月23日、西軍にくみした最後の岐阜城主織田信秀と東軍の福島正則らの軍兵との間で激しい銃撃戦が繰り広げられた場所である。
    馬場跡




二の丸門跡を少し下がった所に岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地で、上格子門から幅3間(約5.4m)、長さ30間(54m)続いている。
元禄年間と推定される岐阜城絵図の「馬場跡」に位置している。
岐阜城に詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所とか、乗馬の訓練をした所とか言われている。
一説には馬場ではなく、矢場であるとも言われている。
           二の丸門



岐阜城資料館から、西南に谷すじを100mほど下がった小さな広場に二の丸跡がある。
天守台にそびえ建つ天守閣の南西一段下に二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門が建っていた。周囲を石垣で高く積上げ、守りを固めている。
関ヶ原合戦の前哨戦では、二の丸門で激戦が繰り広げられた。
この時、門内にあつた硝煙倉蔵に火がついて大爆発し、夜空をこがした火炎が美濃・尾張国内に岐阜城の落城を知らしめるところとなった。
冠木門と白い壁は、1975年(昭和50)に新しく設けられたものだが、このあたりには信長時代の石垣も、あちらこちらに残っている。
写真の右側の大きな石が当時のものと推測される。
    本丸井戸


濃尾平野の北端に独立してそびえ立つ稲葉山(金華山)はかって「一石山}(いっせきざん)と呼ばれた様に全山が一つの岩塊(がんかい)で成り立っている。山上に天主閣をはじめ多くの櫓や蔵と郭を構え、番兵を配した要害堅固な岐阜城であったが、籠城に備えた飲み水の確保は非常に困難であった。湧き水は一滴もないため雨水と岩の間すら僅かにしみ出てくる水を溜める井戸を岩塊に掘削している。
二の丸を挟んで西側に3ヶ所・東側に1ヶ所の井戸がある。
この井戸は、二の丸の東に位置する軍用井戸で「本丸井戸」と名付けられている。


天守(本丸)から約50m下がった井戸谷の井戸もそのひとつで、岩盤をくり抜いて掘られている。
         お城時計

大名時計・和時計ともいう。
西洋の機械時計が日本に入ったのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現在の山口県)の大内氏に献上したのが最初である。
当時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑であつた。このため日本の時計師は工夫と改良を重ね、日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を作りあげ、その精密さは世界一であった。
1872年(明治5)11月太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は製作されなくなった。
岐阜城では、お城の時計と称された江戸時代前期の大型櫓時計を所蔵・展示している。
   軍用井戸(金銘水)


二の丸の西に位置する軍用井戸で「金銘水}と名付けられている井戸である。
    松風橋
  金華山御岳神社

金華山山頂には信仰の山「御岳山」の神社か祀られている。
天候の良い時には、この神社から御嶽山が見られる。
    チャート層

大昔、金華山一帯は海であった。それは金華山を創っている地層や岩石から分かります。

写真は山頂付近にある地層をつくっている岩石で「チャート」と呼ばれている。
   御手洗池


昔後ろの丸山に伊奈波(いなば)神社があり、この池で手を洗って参拝したことからこの名がある。
1600年(慶長5)関ヶ原の合戦の時、岐阜城主織田信秀は石田三成に味方し、徳川軍の福島正則・池田輝政らに攻められ落城した。
そのおりに、大勢の奥女中がこの池に投身自殺を図ったと伝えられる。

池の畔には碑が建っている。

  正史にはさありとも雁の涙おつ

                           塩谷鵜平

    御手洗池
             御手洗池
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