岐阜県のお城へ
郡上八幡城は、吉田川と小駄良川(こだらがわ)に囲まれた海抜350mの八幡山山上を中心とした山城である。
現在の天守や櫓などは、1933年(昭和8)城ブームの時に大垣城天守の外容をまねて造った模擬建築である。
八幡山山頂に築いたのは、鎌倉以来、地頭職にあった東(とう)氏庶流の遠藤盛数(もりかず)で、戦国の風雲急を告げる中で着工した。
郡上市は東氏が戦国期まで、阿千葉(おちば)城・篠脇(しのわき)城・赤谷山城・東殿山城などに本拠を構えて支配していた。遠藤氏が下克上の世の習い、主家の東常堯(つねたか)を東殿山城に滅ぼしたのは1559年(永禄2)8月のことである。
盛数の子慶隆(よしたか)の代に、反秀吉方として柴田勝家と結んだことから城主を追われ、稲葉貞通(さだみち)が城主となった。
この稲葉氏時代の1588年(天正16)から城は大改修され、本丸を山頂に置き、二の丸の居館と外部の家臣屋敷などが整い始めた。
関ヶ原の合戦で稲葉氏に代わり遠藤慶通が再入城し、
1601年(慶長6)から築城工事を再開して近世城郭しとて完成させた。
その後、城主は井上氏・金森氏・青山氏と続く。
近世の城は山上の旧本丸を松の丸・桜の丸・天守台(天守曲輪)と称し、旧二の丸を本丸として、山頂に塀をめぐらすだけとして、城としての機能は近世を通じて山麓にあった。
郡上八幡城をゆく
大手門