戦国時代の伊予今治地方の支配拠点は、能島(のしま)村上水軍の村上武吉(たけよし)が居城とした国府城であったが、関ヶ原で戦功をあげた藤堂高虎が、宇和島城8万石に東予地方12万石を加増され、伊予半国20万石で入城した。
1602年(慶長7)、瀬戸内海に面した今張浦(いまはりのうら)に城郭と城下を築いた。全国でもまれな海岸の平城は、3重の堀に海水を引入れ、瀬戸内海への出入り自由な海城の機能をもつ。
普請工事は約2年で完成したが、のち高虎は伊賀・伊勢に転封(てんぽう)し、養子高吉(たかよし)が2万石で残った。
1635年(寛永12)、伊勢長島から松平(久松)定房(松山藩主行の弟)が今治藩に3万石で入封、松平家10代のもとで明治維新を迎える。五層6階の天守は1980年(昭和55)に復興され、さながら海に浮かぶ水城の雄姿が蘇った。
今治城天守
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