岩村城をゆく
赤時門跡





不開門(あかづのもん)ともいい常には殆ど開かない門であった。
本丸埋門跡
本丸跡
平重門跡



本丸二の門からの入口
 長局埋門跡     (ながつぼねうずめもん)





防御を主目的とした狭い門
二重櫓祉





水晶山方面の監視の役持つ建物
二重櫓石垣跡
  菱櫓跡と俄坂
東曲輪跡





本丸防備のために重要な場所であった。
二の丸櫓門跡
出丸跡
左の絵は当時の復元図
岩村城址からの遠望
  
本丸へ入る搦手門は埋門となっていた.
石垣の中に一階部分は埋まり、門の上にこれに跨って長い多聞があって監視と防備の役目を果たした。
又敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまうことも出来るので、他の門に比べて埋門は堅固であつた。
埋門の石垣は野面積み(自然石を積む)打込みハギ(自然石を石垣の外側のみ平にする)切込ハギ(切石を使う)の三種類を一度に見ることが出来る。





これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは1718年(享保3)に起こった大地震のあと修復したものである。
埋門左側の長い石垣は土岐坂の石垣につぐ古いもので、一見粗雑であるが遺骸と頑丈に出来ている。
左の絵は当時の復元図
山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になったものである。
この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。
菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく、中世の山城を近世城郭の前に俄坂門(櫓門)があり、番所・多聞があって、大円寺・水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正面)で大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で普段は使われないが落城時の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。
俄坂の途中に中世の遺構である東曲輪があるが、天然のしリ峻険を利用し敵の来襲に備えていた。
 
出丸は本丸南部の防衛の役割を持ち、東曲輪・帯曲輪と共に本丸を防衛した。
櫓が二つ多聞が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかった。
櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にあつた。
太鼓櫓には大太鼓があつて、非常の際は城下町に知らせた。この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し定められた部署について戦争等の準備をした。
城下町の町民は火を全て消し、木戸を締めて城からの指令を待った。





多聞は三つあり、一つは武者隠多聞といって戦争の時に城兵を待機させた建物である。一つは大工小屋といって城の営繕関係の中間が仕事をしていた。
 
左の絵は当時の復元図

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