ケベック空港〜ケベック市内観光
3日目 2006.9.22.
ケベック空港に到着。
ケベック空港の管制塔
ケベック市内観光めぐりのチャーター乗用車
サン・ルイ門
州議会議事堂
城壁の外側に建つ白い石造りの建物で1877年にルネッサンス様式を取り入れて建築された建物で、中央の塔には展望台もある。建物の外側にはケベックの歴史に登場する人物の像が立ち並ぶ。(訪問時は外装の工事中でした)
中央にはカナダ国旗と、左側にはケベック来訪中の国の国旗が掲揚される。
州議会議事堂左側(来訪中の国旗が掲揚されている)
州議会議事堂右側
議事堂正面にある先住民のアルゴンキン族の青銅像
議事堂の前にケベック州のセンター表示がされている。
議事堂正面にケベック出身者の著名人の青銅像がある。
戦場公園
1759年の戦いでイギリス軍がここを守っていたフランス軍を破り、以後ケベックはイギリスの植民地となった。当時の戦いは壮絶を極めたいわれており、その歴史を伝える砲台が公園のあちらこちらに見受けられる。
戦場公園から望むセント・ローレンス川と対岸の町(パロラマ写真)
ジャンヌダルク公園にある銅像
1338年から1453年まで115年にわたって続いたイギリスとフランスとの百年戦争 における領土争いの戦争で、、フランス軍を勝利に導いたジャンヌ・ダルクは、イギリス軍の手により宗教裁判にかけられ 異端者として火あぶりの刑に処された。
公園の中は綺麗な草花が咲き誇っていました。
公園内は市民のジョギング・サイクリング等を楽しむ憩いの場所となっています。
戦場公園ロータリー
プラス・ダルム
ケベックシティの旧市街地観光の中心となっている広場。広場の中心にはこの街の基礎を築いた「サミュエル・シャンプラン」の銅像が立っている。個性的なカフェテラス、土産店・ブティック等が建ち並び観光客で賑わっている。
ドルボー神父像
観光客で賑わっているカフェテラス(夕食と翌日の朝食をしたところです))
絵描きの露天が並ぶトレゾール小路(名のない画家がケベックの景色を色鮮やかに書いていたる値段は結構高い)
プラス・ロワイヤル
プラス・ダルムの東側にある階段を下がった一帯は、城壁内のアッパータウンに対してロワータウンといわれている。その中心となるのがプラス・ロワイヤルです。1608年フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランが居を構えたところです。街並みは18世紀の最盛期の状態に復元され、当時のままに再現された石造りの建物が並び内部はブティツックやショップで観光客で賑わっている。
建物の壁面に絵かがれている壁画(壁画の前に立つと昔の街並みに溶け込む様な錯覚になる)
勝利のノートルダム寺院

ロウワ−・タウンのプラス・ロワイヤルの横に建つ小さな教会。1690年と1711年に英国軍に勝ったことを記念して勝利の教会と名付けられた。

寺院を囲んでいる街並
寺院横の広場で大道芸人が観光客を相手に音楽のパフォーマンスをしていた。
お土産店の飾り
お土産店の飾り
洋品店の壁を覆っている紅葉した蔦
アッパータウンとロワータウンを繋ぐケーブカー
ノートルダム聖堂
ケベックのカトリック教区の中枢ともなる教会。北米竹では最も長い歴史をもち、創設は1647年で、現在の石造りの建物は、1992年以降の建築です。
ノートルダム聖堂の荘厳な内部
セントローレンス川のフェリーボート
観光馬車(カレッシュ)
シャンソンを聴きながらレストランでディナーを・・・・・
夕食のメニュー(ビーフランチ)
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ケベック州の総面積は135万812kuあり、準州を除くカナダ最大の州で、日本の3.6倍の大きさがある。北はハドソン海峡、南は1000kmに渡るセント・ローレンス川とガルフ湾・西はジェームス湾とハドソン湾というように、州境のほとんどが氷に囲まれ、しかも100万を超えるといわれる湖沼を抱えている自然豊かな国である。

セントローレンス川を見下ろすディアマン岬。そこに築かれたケベック・シティはケベックの州都でもあり、ユネスコの世界歴史遺産都市にも選ばれた城壁都市として有名です。ケベックの名前は、先住民であるアルゴンキン族の言葉で「狭い通路」を意味していて、セント・ローレンス川がケベックシティ付近で狭まっていることからきている。

 フランス色の濃いケベック・シティは、歴史の重さを物語る落ち着いた観光都市。この地を最初に発見したのはフランス人探検家、サミュエル・ド・シャンプランでした。1608年にシャンプランは毛皮交易の基地をつくるとアッパー・タウン(崖上の街)の城壁内にはカトリックの施設や官吏の建物が建ち始め、ロウワー・タウン(崖下の街)の川沿いには商人や職人が住むようになりました。
1754年にフレンチ・インデァン戦争が勃発し、この戦いでイギリスが使用利し、100年以上も続いたヌーベル・フランスは没落した。1763年のパリ条約によってケベックは正式にイギリス領となった。
しかし、当時のケベックに定住していたフランス人が6万人以上もいたのに対して、イギリス系住民は数百人に過ぎず、フランス民法と信教の自由、そしてフランス語の使用を公認することになり現在に至っている。