高野山

 

空海は平安時代のはじめ、774年(宝亀5)に讃岐国(現香川県善通寺市)に生まれた。
15歳頃に上京、18歳で大学に入り漢籍を学ぶが、その後留学僧として唐に渡るまでの足跡は明らかでない。四国で修行を積み、南部(奈良県)で仏教を学ぶ中で密教に接したと言われる。
その後入唐間際の804年(延暦23)得度・受戒して正式な僧となり、桓武天皇の勅使を得て、留学僧として遣唐使の一行とともに唐に渡る。
この一行には後に天台宗の開祖となり、比叡山延暦寺を開く最澄も含まれていた。空海は唐に入ると都長安にある青龍寺に赴いて密教の師恵果の教えを乞い、わずか8ヶ月あまりの期間に真言密教を学び、その理解力と洞察力に驚いた恵果は感服し「早く故国に帰り、真言の教えを広めよ」と諭し、空海は帰途に着いた。
帰国後、嵯峨天皇の庇護のもと、高雄山寺を中心に密教を広めることに励む一方、811年(弘仁3)には最澄に灌頂を与えるなど、日本仏教の中心的な指導者としての地位を獲得する。
若き空海は山を聖地と捉え、しばしば山籠りをしては修行に励んでいたと言われている。唐に渡り密教の教えをつぶさに学んだ空海「促身成仏」を唱え、その理想を達成するためには、やはり修行が必須であるとの確信を得る。
都を離れた深山幽谷に、鎮護国家と済世利民の祈りの道場を建立し、あわせて修行者のための施設を設けたいという願いが深まった。
そこで空海は816年(弘仁7)「高野山を賜らんことを乞う」上奏を行い、天皇の勅許を賜る。3年後、空海は紀伊の国、高野山上七里四方に結界を結び、造営事業に着手した。
空海高野山に、真言密教の聖地・根本道場として相応しい壮大な伽藍造営計画を打ち出した。
密教思想の核となる胎蔵・金剛界両部曼荼羅思想を具体化した仏塔(多宝塔)を始め、密教独特の思想に基づく本格的な山上伽藍である。
619年(弘仁10)
、高野山山上七里四方に結界を結び、伽藍建立は難航するが、832年(天長9)に、高野山最初の法会「万燈万華会」が営まれる。
願文の中で「この世の全てのものが消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は永遠に衆生の救済に赴こう」という意味の言葉を発し、空海入定後弘法大師信仰や高野山信仰の根源となる。
そして835年(承知2)金剛峰寺定額寺(国家公認の寺)となるが、その年の3月遺言どおり入定。奥の院空海廟窟で、衆生の救済のために祈りを捧げている。