丸亀城をゆく

亀城は、高松城主の生駒親正が、1597年(慶長2)に着工し足かけ6年の歳月を費やし、慶長7年に標高66mの亀山に築いた平山城である。
親正本人は東讃岐の拠点高松城にあって、長男の一正を城主に据えた。
築城期間中に天下分け目の関ヶ原合戦が勃発し、一正は東軍徳川方に、父親は西軍大坂方に味方したが、戦いそのものには参加せず、一正の功で父の罪は許され一正は讃岐17万3千石を拝領し、高松城に移り丸亀城には城代として佐藤掃部(かもん)を置いた。
1615年(元和1)一国一城令が発せられ丸亀城は廃城となった。
その後、1641年(寛永18)、西讃岐5万3千石を領した山崎家治が丸亀城主に任じられ、城の再築が開始された。
幕府は西国外様大名を海上から押さえ込むため家治に銀3百貫を与え、丸亀城再築を支援した。高石垣群はこの頃(寛永20年)に築かれたものである。
さらに1658年(万治1)、京極高和が播磨(兵庫県)龍野から入り、天守を完成させ、第二代高豊が大手を南側から北側に移すなど城の全容を整えた。
11の櫓は明治期にすべて失われたが、天守、大手門などは地元の懇願で残された。丸亀城は、丸亀平野と備讃瀬戸を一望におさめる亀山公園にあり、山の名前から亀山城・蓬莱城とも呼ばれた。石垣の美しさで知られ、讃岐富士(飯野山)と並ぶ丸亀市の象徴である。
城址は国史跡  
天守南西面
東西約11m、南北約9m、3層3階の丸亀の天守は、現存する古天守のなかで最も小さい。
1660年(万治3)の建造で、入母屋造り、本瓦葺。2層の南北に唐破風、3層の東西に千鳥破風を飾る。
 
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