大坂城をゆく
大坂城公園内に鎮座する。祭神は太閤秀吉と
豊臣秀頼、秀長で、本丸桜門と向かい合う所にある。1879年(明治12)中之島に創建。
1961年(昭和36)に太閤ゆかりの大坂城二の丸跡に移転した。
天守五層の外壁を飾る金の伏虎
豊国神社(ほうこく)
大阪府のお城へ
この大砲は、前兆348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧砲で、材質は青銅の何一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大坂城内に移されたものと伝えられる。
1870年(明治3から)時刻を知らせる号砲として用いられ、始めは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お昼のドン」と親しまれた。
火薬節約その他の理由により1923年〜24年(大正12〜13)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。
号  砲
本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月この地を選んで一字の坊舎を建立し明応8年2月まで居住した。
天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称した。
ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。
永禄13年織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。
而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議となる。
天正11年豊臣秀吉が大坂城を築く。
のち時代はかわれども、今でも蓮如上人袈裟縣の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。
蓮如上人袈裟縣の松
この井戸は、現在の市立博物館裏北隅にあたる、本丸御殿下台所裏にあった銀明水井戸の井筒を1931年(昭和6)の天守閣再建にあたつて、敷石とともに移設して飲料水井筒としたもので、水は水道水を使用している。
名称の由来ははつきりしないが、本丸内の金明水に対してこの名がつけられたものと推定されている。
銀明水井戸の井筒
金蔵は(かなぐら)とも呼び、普通は御金蔵と言われている。徳川時代、幕府の金貨、銀貨を保管した土蔵で、大金庫の役割を果たした。
1626年(寛永3)に創建されたが、当初二階建てであったが、1843(天保14)に現在の一階建てに改造された。
内部は板張りで大小2室からなっている。
火災と盗難防止に特に工夫がこらされ、床板の下は厚い石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子の三重構造、小さな窓は土戸と鉄格子、床下の換気窓も鉄の二重戸となつている。
金 蔵
この井戸は水面まで約33mの深さがあり、井戸枠は一箇のくりぬき石で、外部の水流しは4枚の 大石を組合せて敷き詰めている。
伝説では豊臣秀吉が、井戸水の毒気を抜くために黄金数枚を水に沈めたと言われていたが、近年の調査によってこの井戸は豊臣時代のものではなく、1624年(寛永元年)に掘られ、井戸の屋形は1626年(寛永3)に建てられたものと判明した。
尚、この井戸はもとは黄金水と呼ばれていた。
金明水井戸屋形