高槻城は平安時代に近藤忠範が居館を構えたのがはじまりで、1569年(永禄12)に和田惟政(わだこれまさ)が城としての基礎を造ったが、その子惟長(これなが)の時、家臣の高山右近に城を追い出された。
1573年(天正1)に高山右近が町屋も掘で囲いこんだ堅固な城を築いた。高山右近は熱心なキリシタンで、城内に天主教会堂を建てるなど、高槻城はキリスト教の重要な拠点となっていた。
天主教会堂は現在の野見神社付近にあったと推定されていおり、周辺の発掘調査では、キリシタンを葬った墓地が発見され、館蓋に画かれた十字架やロザリオも見つかった。
高槻城本丸跡の城址碑
大手跡
この辺りは、高槻城三の丸への重要な出入口であった東大手の位置したところである。
大手には、北・南・東の各門があり、石垣で築かれた枡形に各々2ヶ所の番所が設けられていた。中でもここ東門は、最も重要な城門とされ、東大手門あるいは大手御門といわれていた。門の内には、家老や郡奉行などの屋敷が並び、参勤交代など江戸や京都へ向かうときは、内濠に面した桜之馬場で供揃えをして出門、京口から八丁松原を経て西国街道を東進したという。
高麗門
本行寺に移築された高麗門が遺構として残っている。
高山右近立像
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、1552年(天文21)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされている。
右近の父高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重と結び、惟政を追放し、1573年(元亀4)右近は高槻城主となった。
摂津国主である荒木村重織田信長に反旗をひるがえした1578年(天正6)、村重子や妹を人質に出していた右近に、信長オルガンティーノ司祭を使いとし降伏を勧めた
これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれている。その後右近は、山崎合戦は秀吉に仕え功績を挙げた。
右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間であった。右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。1586年(天正14)頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、「南坊」(みなみのぼう)と号していた。
キリシタン大名としての右近は、1574年(天正2)城の側に壮麗な教会を建て、キリスト教の伝道に努めた。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれいてる。
秀吉が、バテレン追放令を発した時、右近は改宗を拒否し、領地を没収されている。禁教令をだした徳川幕府により、1614年(慶長19)10月、国外追放処分を受けた。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、1615年慶長20)2月5日に異国の地で亡くなった。
高槻城郭図

高槻城をゆく


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