高山城をゆく
高山城復元想像図
標高686.6m、通称城山、別名を臥牛山・巴山ともいう。
金森氏が入国以前は天神山と呼ばれた。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって文安年中に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれていた。永正年間には高山外記が在城していた。
1585年(天正13)7月、金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。
城地しとて、最初は鍋山城を考えたが後にこの天神山古城跡を選定した。飛騨の中央部にあり、東西南北の街道が交差する最も適した所と考えのである。
築城は1588年(天正16)から始め慶長5年までの13年で本丸、二の丸が完成し、以後可重によつて更に3年で三の丸が築かれた。高山城は信長の安土城構築直後に築かれ大きな影響を受けている。
軍事的機能を最優先させた城でなく、御殿風の古い城郭形式をもち、外観2層、内郭3階の構造をもつ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置づかれる。
本丸屋形には台所・風呂・大広間・茶室などがあった。
南の大手方面には南之出丸・北の搦手方面には東北曲輪・中段屋形が配置されていた。
金森長近の銅像
高山藩主初代「金森長近」公は美濃土岐氏り一族で初名を「可近五郎八」と称した。幼少より織田信長に仕え「長」の字を賜り「長近」と改名した。
1575年(天正3)5月長篠の役、次いで加越の戦に従い7月越前大野に封ぜられた。同10年本能寺の変があり、嫡子長則が殉死した。この年「従四位下兵部大輔」となり、剃髪して「兵部卿法印素玄」と称した。
同13年8月秀吉に従い越中の佐々成政を討ち、さらに飛騨国平定の命を受けて越中婦負郡より入り一国を統治した。
翌14年飛騨3万8千石の領主となつた長近公はこの地臥牛山に築城の計画をたて町家を新城下に集め市坊の経営に当たった。
1600年(慶長5)関ヶ原役には徳川家康の旗下に属して勲功あり、美濃上有知 関 河内金田において2万3千石を加増され、飛騨を2代可重に託し上有知に小倉山城を築いて晩年の居城とした。
長近公は、民政に力を尽くし、高山城下の町割を始め、寺院の再興、道路の整備、産業の開発等は領民に多大な便益をもたらした。
同13年8月12日京都伏見邸にて卒去。享年85歳であった。

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