談山神社
談山神社の由緒
法興寺蹴鞠会において出会われた中大兄皇子(のちの天智天皇)中臣鎌子(のちの藤原鎌足)が藤花の盛りの頃、当社本殿裏山にて極秘の談合をされた。『多武峯縁起』によれば、「中大兄皇子、仲臣鎌足連に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかんにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に發乱反正の謀を談ず」と記されている。
この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮に蘇我入鹿を討ち中央統一国家及び、文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられたのである。
多武峰、談峰・談い山・談所が森とも呼ばれ「大化改新談合の地」の伝統が残り、談山神社の社号の起こりとなった。
天智天皇8年(669)10月鎌足公の病重しと知った天皇は、自ら病床を見舞い、後日大織冠内大臣という人臣最高位を授け、藤原の姓を賜った。
藤原氏はここに始まるのである。その没後御墓は、摂津国阿威山に造られたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峰に改葬し、十三重塔・講堂を建立し妙楽寺と称した。さらに大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の創祀である。