徳島城をゆく
蜂須賀家政像
蜂須賀家政(1558〜1638)は秀吉の片腕として有名な「小六」こと蜂須賀正勝の嫡男して生まれた。
1575年(天正3)18歳の頃からその名が歴史に登場する。特にこの年に行われた織田・徳川連合軍対武田勝頼の一大決戦「長篠の戦い」に従軍し、軍功があったと伝えられている。
そして、織田家の中国方面軍司令官に抜擢された秀吉の毛利攻めに従い、数々の軍功を挙げた。 
本能寺の変後は、秀吉と柴田勝家の一大決戦「賤ヶ岳の戦い」にも手柄を立てた。
秀吉の死後「関ヶ原の戦い」では、家政は蜂須賀家を保つために「二股」をかけた。即ち嫡男の至鎮(よししげ)を家康の東軍に従軍させただけでなく、自らは隠居するという手に出た。こうしておけば東軍が勝てば当然至鎮は生き残るし、万一西軍が勝ったとしたら家正の方が生き残る。どちらにしても蜂須賀家の家名は残ると考えたのである。
隅櫓跡の石垣
月見櫓跡の石垣
本丸跡
徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていた。
本丸は標高61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要であった。
本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓武具櫓火縄櫓が設けられていた。
は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていた。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていた。又本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救った。
本丸の出入口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(埋門)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。
東二の丸には3層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられました。天守の1階は7間(薬14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
西の丸には鉄砲櫓(とばり)、その西方の西三の丸には木材櫓平櫓が設けられていた。
西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されている。
本丸跡にある清玄坊社
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあてり天皇より「源氏」の称号を賜り、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国し、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じないため、公は一計を編み換地を与える言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。途端に蜂須賀家には、返事が続出したので公は清玄坊の祟りに違いないと、前非を悔いて石碑を建て、末代まで供養することを誓ったところ、此の返事はピタリと止まったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭りを続けている。清玄坊の長男範月は家政公と和解をし、父の菩提を弔うため、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。又真珠湾攻撃で魚雷不発のため、九死に一生を得た特攻員の酒巻和男も此の子孫である。
東二の丸跡
天守跡
大手門跡
城山を囲む石垣群
竜王の樟
「竜王さんのくす」は、城山で最大のクスノキの古木で、樹齢推定600年くらい。1934年(昭和9)の室戸台風で倒れた。この大クスから西へ100m、低い石垣の上の小平地に竜王神社があったことから「竜王のクス」と呼ばれている。
城山東側麓の庭園
城山貝塚跡
貝塚は、古代人が食料とした貝や魚類・鳥類などの残滓や、生活に使用した土器や石器などいろいろな物を処分した「ごみ捨て場」であり、また時には死者を埋葬する墓地でもあった。
城山の貝塚は、約4,000〜2,300年前の縄文時代後期〜晩期を中心とする岩蔭・洞窟遺跡であり、現在1号〜3号貝塚が存在する。
1922年(大正11)に鳥居龍蔵博士らによって発掘調査が行われ、中でも2号貝塚では、蛤・蠣・ハイガイ等を主体とした厚さ60〜100pにもおよぶ貝層が確認され、縄文時代後期の土器片や、ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土し、考古学調査の遺跡としても評価されている。

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