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3日で3勝


今日では、リリーフ投手の記録としてセーブやホールドが整備されてきているが、これらは、一般に投手を評価する物差しとなる救援勝利自体の欠陥から生み出してきた記録である。前の投手の勝利の権利を消して自らが勝ち投手となったものが同列に評価されてしまうことがその最たる点だが、それ以外にも、救援勝利だけでは数値が小さくて記録争いの評価をしづらいことが挙げられよう。

中にはリリーフ中心の登板で最多勝利のタイトルを獲得するような選手もいたが、先発投手が5イニング以上の間に味方が勝ち越してくれればいいのに対し、救援投手は1イニング2イニングのスポットに勝ち越しや逆転が発生しないと勝てないわけで、本来救援投手は勝ちにくいものである。

それでも、ひょんな巡り会わせで連日連勝ということもある。これから述べるのはそんな連投連勝を経験した投手の話である。

1966年西鉄若生忠男という投手がいた。通算100勝も達成した選手に「いた」などという表現はいささか失礼かもしれない。ただ、1963年まで4年連続防御率2点台、3度の2桁勝利を記録していたのが、その後2年は5勝に8勝、防御率も4点台・3点台と一時の球威が影を潜めていたような状況である。

シーズン当初は同点やリードの展開で締めくくりリリーフに起用されたが、5月に入ってからは負け試合での起用ばかりが続き、5月下旬からは1ヶ月の二軍落ち。ようやく6月末に戻ってきたが7月5日の阪急戦ではリリーフで1アウトもとれずに降板、翌6日には同じ阪急戦に先発して2回2失点で降板しており、復調したとは言い切れない。

7月15日から、西鉄はダブルヘッダーを含む対阪急4連戦を戦った。その初戦、西鉄先発の井上善夫は不安定で2回には一死満塁のピンチを迎えた。ここは併殺に打ち取って難を逃れたが、中西太監督は井上をすっぱりと代え、3回から若生をマウンドに送った。若生は期待に応え、7回まで5イニングを散発3安打無四球に抑える。その間味方が点を取り、最後は稲尾和久の締めくくりを受けて、実に81日ぶりの2勝目を挙げた。

翌16日は延長戦にもつれ込んで、11回表に若生に出番が回ってきた。先頭のウィンディには前日2安打を許していたが、これを打ち取ってあっさり三者凡退で切り抜ける。その裏、下須崎詔一がサヨナラ本塁打を放って3勝目が転がり込んだ。

17日はダブルヘッダーで、第1試合は2-0で西鉄が快勝。続く第2試合は0-2とリードを許した7回表から、若生がこの連戦3度目のマウンドに上った。7回は森本潔にヒットを許すも後続を断ち、8回は三者凡退。するとその裏チームが同点に追いつく。9回もマウンドに上がった若生は、スペンサーを歩かせたものの続く石井晶を併殺に仕留める。その裏、ロイの二塁打でサヨナラ勝ちの4勝目となった。3連投でこそないが、3日で3勝を挙げたわけである。


以上の話、実はかつて『プロ野球記録大鑑』において宇佐美徹也が取り上げた、既知のエピソードである。宇佐美は1勝目を「稲尾和久に助けられ」、2勝目を「延長11回、表を投げただけ」、3勝目を「敗戦処理で7回から登板していたが運よくチームが逆転」と、いずれもタナボタ感のある表現にして、いわば珍記録の扱いである。経過を見ると確かにそうであるが、果たしてそれだけだったのか。同書に述べられていない、その後のシーズンを追ってみたい。

次の登板はオールスター明けの7月26日・28日、これまた阪急3連戦の中の2試合だった。どちらもビハインドでの登板で、26日は2回を1安打1四球無失点に抑えたが、28日は山口富士雄に本塁打を許した。もっとも許した安打はこの1本だけ、3回を1失点で切り抜けている。

8月2日の阪急戦にはついに先発で登場。若生も度々の好投で阪急打線に自信を持ったのか、5回まで許した走者はスペンサーの二塁打のみ。7回に早瀬方禧に安打と四球で無死一・二塁となったところでの降板だったが、失点は6回岡村浩二のソロ本塁打のみ、3安打1四球で5勝目となった。この試合を受けて毎日新聞は「若生は上下の変化と外角へのスライダーで相変わらず阪急に強いところを見せた」とキラーぶりをほめている。

それから中1日、4日の阪急戦。義父三原脩譲りのツキを重視したか、中西監督はまたしても若生を先発に起用した。いきなり先頭のウィンディに死球を与える幕開けだったが難なく抑え、6回まで投手の金本秀夫に1安打されただけ。7回二死から苦手の早瀬に安打を許し、次のスペンサーの初球がボールだったのを見て、ようやく交代となったが、この試合も2-0で西鉄が勝って、2安打1四球の若生は6勝目をマークした。

結局7月に入ってから8月のこの試合まで12試合のうち9試合が阪急戦。この間5勝1敗と見事な阪急キラーぶりを見せた。またこの8月はビハインドで登板した6試合すべてを自責点0で抑え、しかもうち4試合が投げている間に逆転に成功もしくは追いつくというラッキーボーイぶり。あの3日で3勝からの流れは健在だった。

8月28日には近鉄相手に2安打無四球完封勝利も挙げた。3年ぶりの完封はこの年唯一の完投でもあった。

9月3日は久々の阪急戦に先発したが、初回にいきなり1点を許し、5回にも悪送球二つでランナーを返されて6回3安打1四球2失点。それ以外の回はすべて三者凡退に抑えたが、続く投手が勝ち越しを許してしまった。

それでも3日後9月6日の東映戦には4回からリリーフ。毎回のように走者を許すピッチングながらも6回を2安打4四球無失点に抑えて勝ち投手となり、3年ぶりの10勝目。

9月28日には近鉄戦に先発するも、3回にボレス安井俊憲小玉明利土井正博の4連打で4失点。5安打1四球でKOされたが、その後打線が逆転。これは負けつかずの幸運な試合だった。

10月に入り、チームは首位南海を追い、わずかに残った逆転優勝の目に全てを賭ける戦いが続いていく。10月1日の阪急戦では2回から登板。1安打1四球、ほかにエラーでランナーを出したが、9回まで0点に抑えての11勝目となった。

その後逆転の望みは絶たれ、残り試合を全勝してようやく優勝決定戦、という土壇場、6日の近鉄戦はダブルヘッダーだった。その第1試合に、0-0ながら4回から登板。5回に河合保彦のソロで勝ち越すと、6回を1安打無四球無失点に投げ切って望みをつなぐ12勝目とした。

しかし3日後の10月9日の対東映ダブルヘッダーの第一試合に敗れ、ここに西鉄のペナントレースは終わった。若生自身の最後の登板はその第二試合、負け試合の9回1イニングを三者凡退に切ったものだった。


以上、阪急キラーとして自身を甦らせ、後半2ヵ月余で11勝を挙げる活躍を見てきた。ビハインドでの登板にもよく抑えて勝利につなぎ、最後は1-0の展開を投げきるまでになった、安定したピッチングは見事だったといえるだろう。

この年の成績は41試合に登板して12勝3敗、1.54という防御率を見れば、あの3日で3勝というのも決してフロックではなかったことが分かるだろう。そして、これを裏付けるもう一つの記録が、実はこのとき生まれていた。

上の各試合の紹介に、安打数や四球数を書いてきたのにお気づきだろうか。この年若生が1試合で最も安打を許したのは、9月28日の近鉄戦での5安打。同じく四球を与えたのは、9月6日の東映戦での4四球である。シーズン全体で見ると、117回1/3を投げて56安打22四球(うち故意四球1)という数字になる。これを、1イニングあたりの安打と四球の平均値を示す WHIP であらわすと、若生の WHIP は 0.665 となる。これはどういう数字か。

日本における、規定投球回数以上の投手の WHIP 記録は、戦前の1936年秋のシーズンに、景浦将がマークした 0.719 である。しかしこの時はシーズンで57回しか投げておらず、実質的な日本記録は1959年村山実がマークした 0.748 と言えるかも知れない。これらを含め、規定投球回数以上で WHIP が 0.800 を切った選手自体がこれまでに延べ7人しかいない。

規定投球回をシーズン100イニング以上と変えても、若生を加えた8人だけであり、その中で WHIP が 0.700 を切るのは唯一若生だけである。0.700 未満の選手で若生に次いで投球回数が多いのは2008年の藤川球児で、それも67回2/3に投げての 0.695 である。シーズン50イニング以上と範囲を広げて、ようやく若生をも上回る成績が出てくる。2002年の豊田清で、57回1/3での 0.610 である。

   
BB
0.610 2002 豊田 清 57.1 32 3 10.67
0.665 1966 若生 忠男 117.1 56 22 2.55
0.695 2008 藤川 球児 67.2 34 13 2.62
0.700 1997 佐々木 主浩 60.0 25 17 1.47
0.719 1936秋 景浦 將 57.0 23 18 1.28
0.748 1959 村山 実 295.1 165 56 2.95
0.749 1956 小山 正明 232.1 134 40 3.35
0.754 1959 杉浦 忠 371.1 245 35 7.00
0.7579 1997 宣 銅烈 63.1 36 12 3.00
0.7581 2010 ファルケンボーグ 62.0 39 8 4.88

こうして見ると、100イニング以上投げてのこの数字というのがいかに凄い値であるか、わかっていただけるだろうか。ランナーを許さない、打者の側から言えば出塁しにくい、素晴らしいピッチングが浮かび上がってくるのである。

一見珍記録の類に思えるものであっても、それがいい方の記録であれば、その裏に実はとんでもない記録がひそんでいるのかもしれない。その一端を垣間見る記録であった。


written by Seiichi Suzuki, at 2011. 1.11. / updated at 2010. 1.11.