1985/12 歌まかを初めて聴く

 いつもは買わない「アニメージュ」(マジカルエミのイラストコンテストが載ってた)を読むと

たまたまラジオ番組の紹介欄がありました。聴ける番組はあるかと探したところ、見つけたのが

「歌謡曲まかせなさい」だったのです。

 早速聴いてみたところ、アニメとヒットポップスが三時間で26 曲ほどもかかり、しかも19:30

から20:00は「究極の主題歌コーナー」があり懐かしいアニソンばかりかかります。ちなみに全曲

フルコーラス。

 すっかり気に入って聴き続けることとなりました。まさか今日まで続くとは思ってませんでした

けど。

1986/8/18 初めての集いそして漱石軍団結成

 プロ野球が始まり歌まかが短縮版になったが、新しくアニメ玉手箱がスタートし順調に放送され

いました。そんなときファンの集いの告知が。初めは行くつもりがなかったのですが、アニ玉の

リスナーである先輩が一緒に行こうと誘ってくれたので行くことに。

 その時は冨永みーなさんのコンサートツアーの中でファンの集いをさせてもらった感じでしたが

十分楽しませてもらいました。コンサートなのにただだったし。

 この先輩とは常に行動を共にするようになり、ついにはリスナーグループ漱石軍団を結成する

ととなりました。正確な日にちは忘れたのですが。由来は以下の通り。

 投稿するのはハガキがいる→ハガキを買うのはお金がいる→お金=\1,000=夏目漱石→漱石軍

 ここに漱石軍団NO.2タラちゃんが誕生したのでした。

1987/1/15 感動の嵐

 第二回ファンの集いは今はなき(泣)ラジオ関西ホール。350人しか入れないため初めて抽選が

おこなわれました。幸いにも当選し先輩とともに出かけることに。

 まず感動したのが某有名リスナーグループの人と一緒にラーメンを食べ、会話をしたこと。

なんだと思われるかも知れませんがそのころのリスナーにとっては神のような人だったのです。

 次にALL ANIMATION TOP20イントロクイズで二位のサイレント・ヴォイスを当てたこと。

位はメロスのように〜LONELY WAYだと確信し、じゃあ二位はこれしかないとやまかんで手を

上げたら成功しました。商品は小幡洋子さんのポスター。あと番組内で集いの模様が放送されたとき、

一位から三位が紹介されたのですが二位というまん中の曲だったのでカットされず自己紹介が電波に

のって流れるというおまけ付でした。(この放送を録ったテープがないのが残念)

 この集いが終了後リスナーグループ死鬼隊と漱石軍団との吸収合併が同意され、早速リスナーの方々

に告知され、これで現在のペンネーム死鬼隊NO.11漱石タラちゃんとなりました。

1988/3/27 誰がために

 この日は記念すべき第一回アニメ玉手箱ファンクラブ総会。内容はアニソンを合唱するというもの。

当時のカラオケBOXにはアニソンがほとんどありませんでしたから、大声でアニソンを歌う機会は

ほとんどなく、そのため大声でアニソンを歌う機会をもうけようというイベントだったのです。

約450人が四時間熱唱しました。

 このイベントにスタッフとして参加しました。役割はイントロ歌合戦の時に観客席に降り

インタビューすること。必勝の鉢巻きをし、それに大山十五世名人の扇子を挟むという妙ないでたちで

インタビューに走り回りました。今にして思うとなんでこんな格好をしたのだろうと思うのですが、

それだけ目立ちたかったのでしょうか。

 ラスト一時間、スタッフは時間が無くてばたばたしていたけれど、しっかりアニソンを熱唱させて

もらいましたので楽しかったです。特にアンコールの曲「誰がために」はスタッフ全員がステージで

肩を組んでの熱唱し、思わず目頭が熱くなりました。

 そのほかにもイベント開始前の控え室で岩崎さんと吉田さんを話をしたこと、その後の打ち上げなど

(お酒を飲める年齢ではなかったけど楽しかった)貴重な経験をさせてもらいました。

1989/3/25、4/1 アニメよさらば

 三年の歴史をもってアニメ玉手箱は終了。二時間枠で青春ラジメニアがスタートする。

 時間が拡大されるのは歓迎でしたが、せっかく定着したアニメ玉手箱の名前が無くなるのは寂しい

ものがありました。しかし某事件の影響でアニメに対する風当たりが強くなり、アニメという言葉自体

が迫害される状況ではやむ得なかったのかも知れません。

 でも正直な話、青春ラジメニアという名にしばらくは違和感を感じていました。

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