飯盛山(山に登るには正面の階段からと、右側のエスカレーターから登れます) |
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階段左側には、白虎隊記念資料館があります。数々の貴重な資料が保管されています。 |
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資料館前の白虎隊士像 |
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酒井峰治と愛犬クマの像 |
戸ノ口原の生存白虎隊士22人の一人「酒井峰治が、鶴ヶ城に入城するため一人山間を退却中愛犬クマが飯盛山の裏手に出迎えた時の銅像。 |
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飯沼貞雄翁の墓碑と顕彰碑 |
白虎隊士自刃者唯一の蘇生者者、飯島貞吉少年(のち貞雄と改めた)は、印出新蔵の妻ハツに助けられ、のち逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし、昭和6年78歳で仙台において没した。白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることが出来た。昭和32年戊辰戦役90年祭に財財団法人前島会仙台支部の手によってここに墓碑と顕彰碑が建てられた。 |
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白虎隊士自刃之跡 |
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飯盛山から遥か彼方に炎上する鶴ヶ城を眺める白虎隊士像 |
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自刃の場所を上から眺める |
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自刃場所から遥か彼方に見える鶴ヶ城 |
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会津藩殉難烈婦の碑 |
この碑は、会津戊辰戦争で自刃又は戦死した婦女子200余名の霊を弔うため昭和3年4月1日旧藩士山川健次郎氏等の篤史志家によって建てられた顕彰碑です。 |
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白虎隊士の墓 |
1868年(明治元年)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した19士がここに祀られています。8月23日(新暦10月8日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約3ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、のちこの自刃の治に改葬されました。現在の形に19士の墓が建てられたのは明治23年で、二度にわたり墓域が拡張されました。下の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い戦士した会津判少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
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下の写真は、会津の各地で戦い亡くなった白虎隊士31名の慰霊碑です。 |
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忠烈白虎隊碑前で演じられている「白虎隊演武」 |
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飯盛山のお土産屋さんの娘さんでした(帰りにお土産を買いました) |
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白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市から寄贈された「ローマ市の碑」 |
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水塚・花塚・茶筌塚(会津茶道の大恩人である「山口儀平翁を称えて建てられた) |
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宇賀神堂((白虎隊十九士之霊像が祀られている) |
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さざえ堂(1796年(寛政8)建立) |
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慈母子育観音堂 |
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厳島神社 |
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戸之口堰洞穴 |
今から約400年前元和年間猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられのち天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により飯盛山の山腹約150mを人口的に穴をあけ、水田2500ヘクタールの灌漑に供し使役人夫5万5千人と3ヶ年の歳月を費やして完成した。
白虎隊士中二番隊は戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが、戦いに利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞穴である。 |
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天然記念物「太夫桜」 |
雨で満開の桜が呆けていますが、高さ13m、周囲5.5m、えどひかんざくらで石部桜と共に会津の二大老樹の一つです。1626年(寛永3)、蒲生忠郷公在城の頃、若松城下の堀江町にいた、いつき太夫という名妓が、花見のおり、この辺で兇徒のために殺害された。弟の南秀と云う滝沢南岳院の法師がこれを大変悲しみ、霊を弔うために墓側に植えられた桜で、その樹は既に枯れ現在の樹は二代目と伝えられている。 |
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