広島城をゆく
島城(ひろしまじょう)は、広島県広島市中区基町にある城郭。鯉城(りじょう)ともいう。国の史跡。
広島市内の中州に、吉田(安芸高田市)の郡山城主毛利輝元(元就の孫)が築城した平城。1589年(天正17)から99年(慶長4)まで10年をかけて、太田川を自然の外堀に仕立て、さらに3重の外、中、内堀で城郭を固めた。
方形の本丸を中心に、南堀の中に狭い二の丸を配し、本丸御殿の北西に5層の天守を造営、天守東と南に3層の小天守を連結した。縄張りは豊臣秀吉の聚楽第を模したとといわれ。取り巻く櫓の数は約60にものぼる広大な城郭になつた。(櫓数60は次の福島氏時代説あり)。
1600年(慶長5)の関ヶ原合戦の敗北で、毛利氏は周防・長門2国へ減封され、秀吉子飼いながら、関ヶ原で徳川方についた福島正則が入城する。だか、1617年(元和3)の大洪水で被害にあった城の修復が、幕府に無断でおこなわれたという理由などで改易になり、紀伊和歌山の浅野長晟(ながあきら)(妻は家康の娘)が移り、以降浅野氏12代が続き、明治を迎えた。
1871年(明治4)、広島鎮台が置かれ、日清戦争時には本丸内は大本営になり、城内で帝国会議がひらかれ、第2次世界大戦まで軍都広島の中心となった。
外郭は取り壊されたものの、毛利氏時代の城郭は残っていたが、1945年(昭和20)8月の原爆投下で、旧国宝の天守・東櫓・本丸中御門・表御門・太鼓櫓等が倒壊・炎上した。
現在の天守は、1958年(昭和33)に復興、また、築城400年にあたる1989年(平成1)から94年にかけて、表御門・御門橋・二の丸平櫓・多門櫓・太鼓櫓を復元した。
撮影 2008.11.27
二の丸の表御門と平櫓
1989年(平成1)から94年にかけて復元されたました。表御門と右側の平櫓
表御門を正面から眺める
表御門を裏から眺める
表御門内部の石垣
二の丸中庭
内側から見る表御門と多門櫓。表御門、多門櫓と平櫓・太鼓櫓は公開さており、往時の城の姿をしのばさせる。
東側多門櫓跡
二の丸内の番所跡
井戸跡
厩(うまや)跡
太鼓櫓
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