福山城址碑
新幹線福山駅北口を出たところに掲示されている福山城の案内図
新幹線福山駅前(三の丸跡)から二の丸に続く階段が整備されており登ると筋鉄門(すじがねもん)に出る。
伏見櫓(二の丸虎口から見上げる)
伏見櫓は福山城では天守に次ぐ規模(8間×4間半:52尺×28.5尺)の3層の隅櫓である。伏見城(京都府)「松の丸東櫓」にあったものを1622年(毛元和8)水野勝成の福山城地区上に当たってから移築されたものである。近世城郭では古風(慶長初期)な様式を持っている。三の丸から二の丸への大手筋を登ったところにあり、本丸から突出して鉄門や西坂口門を突破した敵を正面から迎え撃つようになっている。
福山駅新幹線上りプラットホームから眺めた伏見櫓は駅から道路を挟んだ対面となっている。
二の丸から見た筋鉄門(すじがねもん)
筋鉄門(すじがねもん)は桁行10間半×梁間3間の櫓門で「筋鉄」の名の通り扉の表面に細長い鉄板を縦方向に並べて打ち付けている。福山城本丸の正門で福山城地区上に当たって伏見城から移建したものといわれている。左に渡櫓、右に多門を連接さしたもので、後代の枡形多門の型をとらない初期様式のものである。
本丸側には窓が設けられていない。
本丸御殿跡(筋鉄門を入って正面に跡が整備されている)
湯  殿
京都伏見城内にあつた御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されてたが、1945年(昭和20)の戦火により焼失した。1966年(昭和419に内外ともに復原したものである。
月見櫓。
月見櫓は、もと京都伏見城にあったものを移建したもので、本来着見櫓のことである。福山城本丸南東端に位置する2層2階、6間×5間の建物で北側に附櫓を有している。西端の伏見櫓と共に本丸南面の左右に双璧をなしており、防衛においても格式においても非常に重要な役割を担う櫓であった。明治初年に取り壊されたが、昭和41年秋、天守閣とともに外観復原されたものである。
福山駅新幹線上りプラットホームから眺めた月見櫓櫓は駅から道路を挟んだ対面となっている。 
本丸東側に建つ鏡櫓
月見櫓の北側で二の丸帯曲輪を広範囲に迎撃できる位置にあった。亭櫓とはくの字の多聞櫓で繋がれていて、本丸御殿と廊下で繋がる亭櫓と併せて本丸御殿の機能を補完していたようだ。「鏡」の名称から恐らくは鏡等の倉庫として使われていたのだろう。鏡櫓は明治時代初期に取り壊されたが1973年(昭和48年)に鏡櫓は市制50周年記念事業の一環として篤志家の寄付を資金に鉄筋コンクリートで再建された。
本丸から見た鐘櫓。
鐘櫓は現在、幅2間(正確には桁行4.26m、梁間4.209m)、二層二階、L字型の建物であるが、本来は馬出門の虎口を囲む多聞櫓の一部であった。そのため、往時は「櫓」とは認識されておらず、平屋の多聞とその上に載せられた鐘楼と考えられていた。
馬出門枡形から見た鐘櫓。
二の丸から見た馬出門虎口。
かつてはこの虎口の右手に火打櫓が左手に馬出門が建てられていた。
 本丸西側の北向き石垣(鐘櫓下)に設けられている排水口
棗門跡(なつめもん)
棗門(なつめもん)は本丸北西端に位置する本丸の搦手門である。「棗」の由来は門の木材に棗の木が用いられたからだと思われる。
棗門虎口。現在は模擬の冠木門が入口に建てられている。
東坂口門跡。
東坂口門は天守東側の二の丸下段と二の丸上段とを結ぶ櫓門である。門の左右には鹿尾菜櫓と東坂三階櫓が建てられ、それぞれ多聞櫓で繋げられていた、あるいは両櫓を繋ぐ多聞櫓の間に設けられた門と言い換えられるかもしれない。いずれにしろ、東坂口門は二つの櫓に守られた極めて強固な城門であった。
東坂三階櫓跡櫓台
黄金水
本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸には4ヶ所、二の丸に2ヶ所あったといわれる。城郭における井戸はその城の良否あるいは戦闘の際の生命を支えるものとして重要視され、この黄金水は渇水期にも水をたたえた素晴らしい井戸であつた。
荒布櫓跡
荒布櫓は本丸北西の塁線上に位置する横長の二層櫓で神辺城から移築されたといわれる)。黄金水の裏に位置し人質櫓と棗門とを結ぶ多聞櫓の間にあった。
二の丸北側に置かれている戦災焼失前の天守閣礎石
二の丸北西側から見た人質櫓跡。
人質櫓は横長の二重櫓で神辺城から移築されたといわれている。「人質」の名称は櫓内に人質を監禁したことに由来するといわれるが、水野時代に藩が人質を取るとは考えにくいことなので、移築前の神辺城での呼称が引き継がれたといわれている。
内堀東側跡。福山駅北口を出た辺りは堀を模した親水公園となっている。
二の丸広場に建つ、福山藩開祖水野勝成 銅像
秋の福山城の景色
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福山城をゆく
この城は、元和五年(1619)福島正則の改易により備後10万石の領主として入封した水野勝成は、中国地方に配置された最初の譜代大名として、岡山、広島の両外様大名の間に割り込み、1622年福山に西国鎮衛の役割を果たす城郭を完成させた。3年の歳月を費やし構築した5層6階の天守は複合天守で、江戸時代築城の天守としては随一の建造物との評価があり、近世築城最後のものとしてその完成された築城術の粋を誇るもので全国城郭屈指の名城とたたえられていた。
低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。現在内外の堀は埋められ、三の丸と共に市街化しているが、二の丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。
城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。
なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和41年(1966)に鏡櫓は昭和49年(1974)に、それぞれ外観復元されたものである。