岩国城をゆく
撮影 2008.11.28
1600年(慶長5)、関が原の戦いの敗れた毛利氏は、周防・長門二か国に減封されるとともに、一族である吉川広家(毛利元就の孫)も出雲・伯耆12万石から4分の1に削減されて岩国3万石に入りました。
広家の新領国・岩国は毛利領国となった周防への入口にあたり、さらに山陽道の東を押さえる要衝でした。
広家は錦川が蛇行する地に居館を構え、そして背後の要衛の地横山の山頂に城郭を築き、山麓に居館ほ築くことにした。
1603年(慶長8)に山頂の起工式を行い、山麓居館から取りかかりその完成後に山上部の城郭の工事に入り、1608年(慶長13)に3層4階・物見付の天守をもつ山城を完成させた。
横山は天然の外堀で川向こうに町割りを行い、城下町が形成されていきました。
しかし、山上城郭部が完成した7年後1615年(元和1)に、江戸幕府の「一国一城令」により、毛利本家は岩国城の破却を命じることになります。
本来吉川家は大名家であるので、岩国城は一国一城令の対象外でした。そのため広家は周防には岩国城のみであることを主張したそうですが、結局毛利輝元の意向を尊重して山上の城郭を破却することになります。その後も岩国には広家以降、吉川家13代が続き、明治維新を迎えることになります。
明治の廃藩置県まで、山麓の居館が岩国藩庁となった。現在、居館跡は吉香(きっこう)神社となっている。19620年(昭和37)に、山上に天守が復興された。
尚、3代藩主吉川広嘉(ひろよし)が、1673年(延宝1)、藩庁と城下町を結ぶために錦川に創設した錦帯橋(国名勝)は、5連アーチの名橋として、城下町岩国のシンボルとなっている。2004年に平成の架け替えが完成した。 
城山の案内図
3層4階の白亜の復興天守 
1962年(昭和37)物見付の天守が鉄筋コンクリートで復興された。城下からみえやすくため、旧天守台より南の山ぎわに建造され、史料をもとに、桃山風南蛮造りといわれている。1階から3階は刀剣・甲冑・武具類を展示、物見は展望質になっている。
天守南側
西北隅の石落し
標高216mの横山に登るには麓から出ているロープウェーに乗れば3分間ほどで山頂駅に到着します。
山頂駅から天守への道は、左は整備された道で、右側は本丸搦手となっており今でも原生林に囲まれ当時の面影を残している。
二の丸跡の石垣
北の丸広場(公園になっている)
北の丸跡に残っている崩れた石垣
北の丸の北側に残る石垣群
北の丸跡と本丸跡の間に、長さ約60m、幅約40mの規模で掘られ、西日本最大の空堀の遺構がある。
北の丸と本丸に架けられた橋
旧天守台
約20m四方の石垣は、古式穴太(あのう)積みを基本にしながら、戦国期の吉川氏独自の石積み技術を加味した造り。1.5km西南の護館神(ごかいじん)周辺から切り出した石灰岩を使用している。旧天守台は上部が破壊されていたが、近年その部分も復元された。
大釣井
本丸跡西の搦手側にある。築城と同時につくられ、非常時の武器弾薬を収納するほかね包囲されたときの脱出口を兼ねた井戸との説もある。
東矢倉跡
二の丸広場
大手門跡
出丸跡
二の丸広場にある時計塔
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