長松城をゆく

1558年(永禄元年)、竹中重元が揖斐郡大御堂より岩手に移る。この際、竹中源助重利は之に従い来て、重元の子である竹中半兵衛重治より三千石を分知されてこの地に城を築いた(これが長松城である)。
重利は竹中氏の支族として重きを成し、本家の重治が羽柴秀吉に従った際には、重治の岩手城城代も務めたが、後に自身も秀吉に仕え各地を転戦し、従五位下・伊豆守を叙任して豊後国(大分県)高田城一万石を与えられた。その後、秀吉の家臣武光式部忠棟が五千石を封じて入城する。
1600年(慶長5)、関ヶ原戦役の際、武光式部忠棟は西軍石田三成に属し、此所長松城で東軍を迎え撃つが、武運つたなく8月28日桑名方面に退去するに至った。その後は東軍の一柳監物が入城して守るが、戦後廃城となった。

撮影日 2008.04.12
長松城址碑
現在は「大垣市立荒崎小学校」になっており遺構は何も残っていない(城址碑は正門の左側にある)
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