駐車場から眺めた高々と築き上げられた石垣上の城壁と二重櫓
霞ケ城址銘碑と二本松少年隊像(後方の建物は二重櫓)
戊辰戦争の時、会津藩の白虎隊のような組織的ではないが、12から17歳の少年達62名が出陣し、16名が犠牲となった。
二重櫓
二重櫓の石落とし
二の丸箕輪門(復元)
箕輪門は城の正門にあたり、江戸時代初めの寛永期に、二本松藩初代藩主・丹羽光重により築造 され、往時門の主材の樫の木を箕輪村(現二本松市内)山王寺山の御神木を使用したことから命名されたものです。  昭和57年復元
箕輪門のアカマツ
箕輪門北側の石垣上に植えられているアカマツの古木群で、四本は三の丸への石段の南東に段状に一列に並び1本は石段の裾右側の石垣上に立つている。これらの松は、土塀に代えて石垣上に植えられたものと思われ、1657年(明暦3)に箕輪門周辺石垣の破損を修理した記録から推察すると樹齢は350年を超える。保存状態が良好で樹勢は今もなお旺盛である。
振り返って、二重櫓・箕輪門・平櫓を見る(裏側)
箕輪門を過ぎて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る枡形(虎口)石垣
石組み
振返って眺めた枡形(虎口)
二の丸付近の城内では桜まつりが行われていました。
相生の滝
この滝は城内の自然地形を利用して作られ、1934年(昭和9)9月に竣工した。名称は公募により「相生瀧」と名付けられた。城内中腹を東流する二合田用水から水を引き、その水は箕輪門の用水路へと流れ込み、城下へとつづく。
「二合田用水」は、初代二本松藩主丹羽光重公が17世紀後半に算学者・磯村吉徳に命じて開削したもので、遠く安達太良山麓から約18kmにわたり清水を引き、城内・城下の用水として利用したものである。現在でも城内各所の水系に、この江戸期の大土木工事の痕跡をみることができる。
七ツ滝
るり池越しに眺める「布袋滝」
洗心滝
洗心亭(明治31年再移築復元)
城内に幾つかあった茶亭の一つで、1837年(天保8)、崖崩れのため阿武隈川畔・地蔵河原に釣茶屋として移築されていたもの 17世紀中頃の創建と推定される。
洗心亭から見た霞ケ池
市指定天然記念物「霞ケ城の傘松」
鶴松
丹羽神社(藩主丹羽家が祀られている)
搦手門付近から本丸石垣の遠望
本丸石垣(東南面)
本丸西側下に残る空堀跡
展望台付近の桜
雨の霞む安達太良連峰(4月半ばでもまだ山頂には雪が残っている) 
二本松城 戒石銘
城の入り口には寛延2年(1749)、二本松藩7代藩主・丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた「戒石銘碑」があり、昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。
なんじの ほう  なんじの ろく・ たみの こう  たみの し・かみんは やすきにもしいたげ・じょう てんは がたしにあざむき
意味・・・お前がお上から戴く俸禄は、人民の汗と脂の結晶である。下々の人民は虐げ易いけけれどども神をあざむくことはできない。
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二本松城をゆく

二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある城(平山城)。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。
二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。江戸時代は二本松藩丹羽氏の居城となった。
現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。

二本松氏は陸奥岩代地方に定着していたが、戦国時代になると伊達政宗が勢力を伸長し争うこととなった。1585年(天正13)9月、12代二本松義継は政宗に攻め立てられるが、政宗の父・輝宗に降伏を申し出て和議が成立した。輝宗のもとに出向いた義継は、あろうことか輝宗を拉致し二本松城へ取って返した。これを聞きつけた政宗は、輝宗もろとも義継を射殺した(粟之巣の変)。和議は破れ、政宗はすぐに二本松城の攻城を開始した。
守備側は義継の子・国王丸(のち義綱)を継嗣に立て籠城した。城は政宗の猛攻によく耐えた。しかし、翌1586年(天正14)7月16日(新暦8月30日)、政宗への内通者も出たため相馬義胤の口添えにより義綱は火を放ち二本松城は落城した。ここに二本松氏は滅亡した。
撮影 2008.04.17