現在の西大寺伽藍図
創建当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。しかし、その後平安時代に再三の災害に遭い衰退したが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当りました。現在の西大寺は、その堂舎の配置はもちろんのこと、それ等に安置されている仏像などもほとんどみな叡尊上人の鎌倉再興の頃のものです。
南門
灌 頂 水
鐘   楼
この鐘楼は、幕末または明治りはじめ攝津の多田院から移設されたものであり、軒下や縁の下に三手先組物を用いた華やかな建物である。現在、上階の柱間は開放であるが、当初は連子窓や扉の付いた部分もあつたことが痕跡からわかっています。建立年代は明らかでないが多田院は1661年〜73年(寛文年間)に復興されたことが知られており、この時に建てられたものと考えられいてます。全体の姿から細部までよく整った質の高い建物として貴重なものです。
興 正 殿
寺 山 太 師 堂
子育延命地蔵尊
愛染堂
もと京都の近衛政所御殿を宝暦12年(1762)に移建した南北十一間、東西八間の宸殿造りの仏堂。内部は、三つに区切られており、中央内陣の厨子内には、本尊愛染明王坐像を安置し、南側は、当寺代々の霊牌をまつる御霊屋(おたまや)、北側は、正式の閲見の場所である客殿となっている。
本堂
塔跡の北方に建つ建物で、中世に建てられた光明真言堂の後身。
現在の本堂は、文亀2年(1502)の兵火のあと、宝暦年間(1751〜64)に再建されたものといわれていたが、後の調査によって、寛政年間(1789〜1802)にそれまでの仮堂を廃して着工、文化初年に完成したものであることが判明した。
桁行7間(24.395メートル)、梁行5間(16.825メートル)で、寄棟造り・本瓦葺き。土壁を使わない総板壁の珍しい建物である。また、内陣の四面に外陣をめぐらす古風なもので、外部は桟唐戸(さんからと)を用いるほか、連子窓(れんじまど)、長押(なげし)、切り目縁など和様を主としているところに特徴がある。外陣を化粧屋根裏として、内陣に小組格天井を高く張るのは中世以来の一般的手法であるが、入側柱(いりかわばしら)を天井裏まで延ばして小屋梁を支えているところは近世的な構造といえる。全般に装飾などの少ない、やや簡素な堂宇であるが、奈良地方の近世仏堂としては、規模、意匠ともに優れたもののひとつに挙げることができる。
本堂正面
護摩堂
本堂の南西、鐘楼の北西に南を向いて建てられていたが、昭和54年に現在地に移された。方3間堂で、右側中央は正面と同じ桟戸、左側は引戸とし、縁は正面と右側にだけ設けており、当初から左右の構えが異なる建物である。改造は須弥壇を後退させただけで、小規模ではあるが上質の建物である。寺に残る棟札から1624年(寛永元年)の建物であることが知られている。
西大寺:聚宝館
昭和36年竣工、国宝 金銅宝塔や、吉祥天立像、行基菩薩坐像などの重要文化財をはじめ多くの寺宝を収蔵し、また一部が陳列されている。
四王堂
創建期の由緒を伝える唯一の堂。
本尊は、正応2年(1289)亀山上皇の院宣によって京都から移安された、仏師円信の作になる本格的な藤原彫刻の十一面観音立像。しかし建物は再三焼失し、現堂は延宝2年(1674)の再建。東西九間、南北七間の簡素な重層建築。現在、毎年三月に初午厄除祈願会が開催される。
四王堂南門   (正面が四王堂)
東  門
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西大寺
所在地 奈良市西大寺寺芝町1-1
開基 称徳天皇
宗派 真言律宗総本山
本尊 釈迦如来
西大寺の創建は奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が藤原仲麻呂の反乱の鎮圧を目的に鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられるが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。その後平安時代に再三の災害に遭い衰退したが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修の根本道場として伽藍を整備された。叡尊教団の活動拠点になったことで、当寺は官寺から庶民の寺院となり、慈善行為などの社会活動も行われた。有名な大茶盛も叡尊が始められたと伝えられる。
ところが、1502年(文亀2)の兵火により再び伽藍を焼失した。1573年〜92年(天正年間には豊臣秀長によって寺領が没収された。
近世に入り徳川家康の保護を受けたが、かっての威容を取り戻すには至らず現在に至っています。  
撮影 2008.02.10