白石城をゆく

1591年(天正19)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあつたこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。1598年(慶長39上杉領となるや上杉氏家の家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。1600年(慶長5)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏の家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏居城となった。
1615年に一国一城令が出たあとも仙台藩の支城として存続を許された。幕末の奥羽越列藩同盟が結ばれたのはこの城においてであった。

撮影 2008.04.18
白石城の縄張り復元図
白石城は標高76メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城であった。
白石城天守閣
東口門跡
東口門から坂を上ると大手門の石垣が見える
大手門の復元されたこの付近の石垣は切り込みハギ、打ち込みハギとなっている。
天守閣と井戸
井戸
本丸北側から井戸と大手一の門を眺める
大手一の門
一の門正面から中を見ると、石垣が張り出し狭くなっていて二の門が見えない。
枡形土塀脇の段に上り、一の門と天守を振り返る。
二の門全景
二の門から天守閣を眺める
天守と復元された鐘堂と本丸の井戸(右下)
復元された鐘堂
白石城鐘堂は、その脇に物日(祝の日)に片倉家の白地黒鐘大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、発掘調査の結果等により、三階櫓(天守)東側のこの平場に建っていたと考えられる。もとの鐘は1466年(文正1)に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあつた。
何時の時代にか白石城に入って、非常の際に撞き鳴らされていた。また、毎年7月、城回りの土手と城の清掃の時には、この鐘を鳴らした。朝8時に7つ撞いて仕事を始め、9時に5つ、10時に3つで終わる。侍と城下にいる足軽、その他扶持を受けている者が総出で堀払いをした。
長年使用したため、ひびが入ったので、1661年(寛文1)片倉家3代影長が仙台の鋳物師早山弥五郎に命じて再鋳した。それが戊辰戦争後、1870年(明治3)白石城払下げの時、ゆかりを知って伊達郡桑折町の傳来寺で買い求め、その由来を新たに記して使用していた。
太平洋戦争中、古鐘であるといって保存させたので供出をまぬがれて傳来寺境内に現存している。
土    壁
この土壁は、日本古来の施工方法で、竹小舞の上に藁入りの壁土を荒壁打ち・目潰し・斑直し・大直し・中塗り・漆喰下塗り・上塗りの工程で仕上げたものです。
天守1階から2階への階段
2階内部
古来の建築様式に基づく、木造による復元となっている。
天守から本丸跡と片倉小十郎碑を眺める
天守から眺めた大手枡形
二の丸跡
白石市内を眺める
二の丸跡
二の丸跡から天守を背にした「第18代横綱 「大砲萬右衛門」等寸像   (本名 角張萬治)
明治2年11月28日、父萬吉の長男として白石市大鷹沢三沢字唐竹に生まれる。少年の頃、60kgの米俵を両手に軽々と掲げ町まで運び、「三沢の怪童」と呼ばれた。明治17年、年寄尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなみ、しこ名を「三沢滝」と称した。身長198cmの巨漢であつた。明治21年しこ名を「大砲」と改める。明治30年4月3日、第18代横綱に推挙され一世を風靡した。大正7年5月27日没する。平成11年11月大砲生誕130年にあたり多くの有志によって建立された。
本丸北東側の石垣 
 明治に入って本丸の主要部にあった石垣は解体されてしまったが、この部分はわずかに残っていたようである。野面積みの石垣が腰巻状に確認できる。
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