縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)に、元和(げんな)6年(1620)から別邸の庭園として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇である。
園の名称は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによるが、また、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。
園の中央に濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路によって回遊できるようになっている。
池の中央にかけられた跨虹橋(ここうきょう)は、七代藩主重晟(しげあきら)が京都の名工に二度も築きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている
撮影 2008.11.26
清風館
園の中心的な建物で、庭園にふさわしい数寄屋造り(すきやづくり)で、屋根は柿葺き(こけらぶき)の瓦棟(かわらむね)である。
代々の藩主が愛好した名亭で、昭和39年(1964)に復元。
悠々亭(ゆうゆうてい)
茅葺(かやぶき)の四阿(あずまや)で、古くは歌会や納涼茶会などに使用されていた。
亭前は、烟霞島(えんかとう)・小蓬莢(しょうほうらい)などを 望み、水面がもっとも広々とした景観がある。
跨虹橋(こうこうきょう)
濯纓池(たくえいち)を南北に結ぶ花崗岩で出来た太鼓橋で、縮景園を象徴する名橋で1783年(天明3)清水七郎右衛門により現在の形になったと言われています。。優美であると共に堅固で原子爆弾の破壊を免れた。
有年場
この小さな田で広島藩主が田植えをしてその年の五穀豊穣を祈願した場所
霊迹壇(れいせきだん)
江戸時代前期(1600年代)大洪水の時に縮景園に漂着した三体の仏像を祀っていたものです。堂内の仏像はその一体(他の二体は原爆で焼失し)で、平安時代後期頃(西暦1100年代)の作と思われる寄木造りの十王像です。
慰霊碑
一枚の写真を手かがリに、1987年(昭和62)7月31日この地に埋葬されていた原爆死没者の64体のご遺体が発見されました。ご遺骨は同年8月6日平和記念公園の原爆供養等に納骨されました。
名月亭
この茶屋は縮景園の北西に建てられいます。庭園にふさわしい数寄屋(すきや)造りで、屋根は茅葺(かやぶき)、庇(ひさし)は柿葺(こけらぶき)である。面積は約43u、内部は玄関の間、控えの間、茶室、水屋となっている。水屋の窓に牛車の車輪が使用されているのは珍しいとされる。1945年(昭和20)8月6日、原子爆弾の投下により焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。
御腰掛(おんこしかけ)なば石
茸(きのこ)(中国・九州地方では「なば」という)に似た自然石を腰掛石したもので、江時時代に土佐国(高知)から持ち帰ったものと伝えられている。
夕照庵(せきしょうあん)
園の西方にある茶室で、ここから清風館を望む景観は人々に親しまれている。屋根は茅葺き、建物の面積は約8uです。1945年(昭和20)8月6日原子爆弾の投下により焼失しましたが、1970年(昭和45)に復元されました。
調馬場跡
馬の調教訓練に用いた調馬場の跡。付近には藩主が調場状況を見物する「流芳軒」(りゅうほうけん)や弓や銃の演習場もあった。
観瀾橋(かんらんきょう)
楊貴妃型石灯籠
形が唐の楊貴妃が付けた冠に似ていることから、この名がつきました。同じ形のものには、京都市大徳寺内の聚光院(じゅこういん)にある千利休の墓があります。
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