曽根古城跡図
埋め戻された石垣の跡
本丸跡(公園として整備されている)
梁川星巌 (やながわ・せいがん)梁川紅蘭(やながわこうらん)像
漢詩人梁川星巌(1789〜1858)は,美濃大垣の郷士の家に生まれたが,家督を弟に譲り江戸に学び,帰郷して私塾を営んだ。妻の詩人紅蘭(1804〜79)と西遊。再度江戸に上り玉池吟社を開き,詩壇の中心的存在となる。また藤田東湖(1806〜55),佐久間象山(1811〜64)らと親交を深めた。
のち上洛して,勤王の志士らと接触。安政の大獄で捕えられる直前,コレラに罹り病死した
「はりよ」の棲む池
ハヨリ(トゲウオ科)の生態は水温が13〜18℃の湧き水などの美しい水にしか棲まない。背びれに3本、腹びれに2本、しりびれに1本の全部で6本の、とげをもった体長6〜7cmの魚です。食べ物は動物性プランクトン。
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曽根城をゆく
この地は天正のはじめ、春日局の父、斉藤利三が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。
 春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斉藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁した。
 曽根城の創業年代は不明だが、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が永禄十年(1567)織田信長に仕え、五万石を領したという。
 その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正十六年(1588)から西尾光教が在城した。
 光教は関が原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になった。
 一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保十九年(1734)に本丸跡に移転した。
 なお、華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斉藤内蔵佐」と利三の屋敷が記されているから春日局は、ここで生まれたのではないかといわれている。                                                
 『曽根城跡案内板』より
撮影日 2008.04.12