高須城をゆく

美濃高須城主高木盛兼は1592年(文禄元年)から1万石を領して居城していたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で西軍に与したので、福島正則に属した高松城主徳永寿昌・今尾城主市橋長勝の攻撃を受け、落城して逃亡し、除封となった。
戦功により徳永寿昌が2万石を加増され5万600石にて入封、立藩し、城郭を修築した。
1627年(寛永4年)、寿昌の嫡子昌重が、大坂城石垣築城工事に懈怠があったとして改易、徳永家の治世は29年間で終わった。
その後、幕府直轄となったが、1640年(寛永17年)下総小笠原貞信が入封、立藩したが、木曽・長良・揖斐川の三川による水害に悩まされたため、貞信は1691年(元禄4年)所替えを願い出て越前勝山へと転封となり、再び幕府直轄となった。
1700年(元禄13年)尾張藩2代藩主徳川光友の次男松平義行は、信濃伊那郡にこの地を加え3万石を領して立藩し、尾張藩の支藩となり、明治まで続いた。
高須藩は、本家尾張藩主家に後継ぎが絶えた時、相続人を出す家柄で、3人が尾張藩主となった。
10代藩主義建は、尾張藩主・慶勝(次男)、石見浜田藩主・武成(3男)、一橋家・茂栄(5男、慶勝が尾張藩主を隠居後、15代尾張藩主茂徳となり、徳川慶喜が将軍となったあと一橋家を相続)、会津藩主・容保(7男)、桑名藩主・定敬(9男)の父である。
                                                        
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』

海津市歴史民俗資料館 (建物3階部分には、高須松平藩御館の一部が復元展示されている)
松平兄弟の写真
復元された能舞台
足利将軍家は猿楽の能を庇護し、江戸幕府もその伝統を受けて、能を武家の式楽と定められた。江戸時代武家屋敷り設計規範によれば、広間の南庭に能舞台を設けた。
復元された広間(大名が外客と儀礼的に接する場所として使用された)
御使者之間(一般に「遠侍」と呼ばれる場で、城廓殿舎の玄関の役割を担う、主客の従者たちの控えの間として機能していた)
御書院取附之間(玄関上がって遠侍に控える属臣出入の用をなす場所て゜ある)
御書院之間
大名が近親来客に接する機能を持っており、高須城では公的・行政的機能の中心殿舎となっていた部屋です。
御上段
御書院之間の上座にあたり、江戸時代からは北床を背にして南向きとし、表庭と正対し、奥に続く西側にも雁行して書院造の座敷を構えました。
山吹之間
山吹之間は北側に「御寝間」が続き、比較的内向きで大名の私的・日常的な書院として使用されていた。
戻る 岐阜県のお城へ