竹田城をゆく

竹田城(たけだじょう)は、兵庫県朝来市和田山町竹田にあった中世山城。
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国指定史跡。

東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっている。

山頂中腹にある駐車場に設けられた大手口への模擬「竹田城山門」
大手門への登り口に建てられている「竹田城址碑」と説明看板
中腹の駐車場から山沿いの道路を大手門下部まで車で行けますが、道路は狭く途中でのすれ違いが難しく又突き当たりには駐車場はなく方向転換が出来る位のスペースしかありのませんので注意が必要です。  
大手門への登り口 
登りきったところに「大手門跡」の石垣があります。
大手門跡で右は北千畳へ、左は三の丸へ出られます。
見附櫓跡の石垣(北千畳の東端になります)
大手門虎口を上から眺める
「北千畳」(桜の季節には山桜が美しいでしょう)
北千畳から三の丸への虎口
三の丸跡
三の丸から見た北千畳
三の丸北西端より見た二の丸・本丸の石垣群
三の丸隅櫓跡
三の丸石垣
武の門跡
二の丸から見た本丸石垣
二の丸への虎口
二の丸跡
二の丸跡から本丸石垣を眺める
本丸下の南側にある平殿跡
本丸石垣
本丸北側の奥殿跡
本丸へ登り口
本丸の虎口
本丸跡
天守台(天守台には石垣に立て架けてある梯子を登りますが、ほぼ垂直で降りる時は慎重に・・・)
天守台跡
天守台よりの東方向遠望( 右は標高757mの朝来山、中腹には、但馬吉野と呼ばれる桜の名所「立雲峡」があります)
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撮影 2008.07.16

 竹田城の歴史は、但馬守護・山名持豊(宗全)の支城として、太田垣光継に構築を命じ、1443年(嘉吉3)、土塁を巡らせた城を完成させ、太田垣光景に守らせた。
 以来、太田垣氏は6代にわたり続いたが、1572年(天正元)、織田方・羽柴秀吉の二度にわたる播磨侵攻の折、播磨龍野城(兵庫県龍野市)の赤松広秀に攻められ落城し、広秀が城主となり、太田垣・山名氏は没落した。 
天正5年、秀吉は、播磨侵攻の勢いに乗じて但馬に攻め入り、竹田城は但馬攻略に当たった弟・羽柴秀長に預け、秀長が竹田4万石の城主となった。
天正8年、秀吉の命により但馬平定を成し遂げた秀長は、出石城(兵庫県出石町)に入り、その後、竹田の城は秀長の属将・桑山重晴に預けられた。
 1585年(天正13)、重晴が紀伊和歌山城代に転じると、再び赤松広秀が城主に封じられた。着任後、広秀は竹田城の大規模な修築に取りかかり、13年の年月を費やし、現在に残る石垣群が築かれた。

 1600年(慶長5)、赤松広秀は“関が原の役”では西軍に加担して、家康に同行して出陣中の細川忠興に代わり父・幽斎の守る丹後田辺城攻めに加わる。
東軍勝利の報を受けて竹田城に撤退した後、広秀は、西軍に加担したことに対する家康への執り成し策を受け入れ、西軍方の鳥取城(鳥取県鳥取市)攻略を果たすが、城下に火を放ち市中を焼いたというかどで家康の勘気に触れ、自刃させられ、竹田城も廃城となった。