中門(ちゅうもん) |
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中門の左右にある「金剛力士像 |
原語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意味があり寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表わしているそうです。 |
形金剛力士像(うんぎょうこんごうりきしぞう) 阿形金剛力士像(あぎょうこんごうりきしぞう) |
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中門に繋がる東回廊の外側(南側) |
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中門に繋がる東回廊の内側(北側) |
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(国宝・白鳳時代) |
東塔は730年建立で創建時唯一の遺構です。しかも天平時代の官寺の重要な建物の中でも唯一の遺構という貴重なものです。各層に裳階(もこし)をつけているため六重に見えますが三重の塔です。 高さは34.1m、相輪の高さは10.3mです。 |
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東塔の相輪(そうりん) |
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水 煙 の 模 型( 東塔) |
東塔の法輪の先端には4枚の「水煙」が取り付けられており、その中には24体の飛天が透かし彫りされています。水煙の大きさは高さ193p、下辺の長さ48pもあります。1300年も前から今日まで天空で輝いています。(下の写真は「東僧坊」に飾られている模型です) |
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金堂本尊台座模型 (下の写真は「東僧坊」に飾られている模型です) |
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中門に繋がる西回廊の外側(南側) |
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中門に繋がる西回廊の内側(北側) |
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西 塔(さいとう) |
西塔は享保元年(1528)に兵火で焼失し、昭和56年(1981)に453年ぶりに復興されました。東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われますが、またそれは奈良を表わす色使いでもあると言えます。 |
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西塔の法輪 |
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金 堂 |
金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。
金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。
昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。 |
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金堂は薬師寺縁起によると二重二閣、五間四面、瓦葺の建物で各層に裳階(もこし)をつけた美しい堂で、「竜宮造り」と呼ばれています。 |
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金堂の全景(北から南を眺める) 左側は東塔・右側は西塔 (撮影・2007_10_28) |
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大 講 堂 |
大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物です。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。
大講堂の本尊には弥勒三尊像(重要文化財・白鳳〜天平時代)、後堂には仏足石・仏足跡歌碑(国宝・天平時代)が安置されております。仏足石の両脇に釈迦十大弟子も祀られています
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大講堂の全景(合成写真) |
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西増坊 |
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東僧坊 |
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鐘楼(東僧坊の前にあります) |
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東 院 堂(国宝・鎌倉時代) |
東院堂は、養老年間(717〜724)に吉備内親王[きびないしんのう]が元明天皇[げんめいてんのう]の冥福を祈り、建立されました。奈良時代は現在地の東側に建てられていましたが、天禄4年(973)の火災で焼失しました。現在の建物は正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、弘安8年(1285)に南向きで再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに変えられました。 |
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堂内には、白鳳仏を代表する国宝 聖観世音菩薩が安置され、その四方は鎌倉時代の四天王像が守護しています。 |
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大宝蔵殿 |
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聚 寶 館 |
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興樂門(北側の門)( |
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