撮影 2008.04.18
米沢城内地図
上杉神社参道。(本丸東側の大手門跡)
御堂上り口の向かい側ある謙信像
二の丸御殿跡に建てられている松岬神社
ここに祀られているのは上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の家老・竹俣当綱、同家臣・莅戸(のぞきど)善政の6名。
上杉鷹山像

上杉 鷹山/上杉 治憲(うえすぎ ようざん/うえすぎ はるのり)は江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名である。

米沢城の本丸跡・上杉神社
2009年のNHK大河ドラは米沢の礎を築いた「直江兼続」を主人公とした『天地人』(てんちじん)が決定し、神社ではPRののぼりが目立った、。
米沢城の本丸・奥御殿跡に上杉神社が建てられています。この神社は明治5年(1872年)に建てられ上杉家の祖・上杉謙信が祀られている。
稽照殿(けいしょうでん)   
大正12年に宝物殿として創設。上杉謙信公の遺品を主に文化財約1,000点を収蔵展示されています。
本丸北東隅櫓跡
この米沢城で「伊達政宗」が誕生した。
今では米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は伊達家が米沢を支配していた。
伊達政宗・幼名・梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567年)8月3日に父・輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。母は最上義光の妹の義姫(よしひめ)。

上杉謙信祠堂(御堂)址

明治まで、ここに甲冑姿で甕に納められた謙信公の遺骸が安堵されており、命日である3月13日には歴代藩主が参拝した。
御堂の隣に建つ招魂碑
戊辰戦争で西軍と戦って戦死した米沢藩士280余名と、西南戦争で戦死した52名の慰霊碑
文化伝承館
上杉記念館
舞鶴橋の欄干から内堀を眺める
舞鶴橋と内堀
本丸に入る.内堀。
菱門橋
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米沢城をゆく
米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にある中世の平城跡

米沢城が最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)と伝えられる。鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定されている。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗った。以後、長井氏の支配が150年近く続いた。
8代広房は室町時代初期に、伊達宗遠(むねとう)に侵略されこの地を追われた。以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。
1548年(天文17)伊達稙宗(たねむね)・晴宗父子の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を桑折西山城より米沢城に移した。
「独眼龍」こと伊達政宗もこの城で生まれている。
1589年、政宗は蘆名氏ら連合軍を破り黒川城を奪って会津地方を制圧。さらに須賀川など奥州南部の大部分を制覇し50万石から150万石の領主になった。
1590年、秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して本領を安堵される。しかし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ没収となり、会津へは蒲生氏郷が入る。
翌1591年には、その蒲生氏郷とともに大崎・葛西一揆を平定するが、政宗自身がその一揆を扇動していた嫌疑をかけられ、上洛・弁明しなんとか許されるものの、米沢から岩出山(宮城県北部)へ転封となった。(天正19年)政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城に移った。
以後、米沢城へは、会津を支配した蒲生氏郷のもとで蒲生郷安が、ついで1597年に会津に入った上杉景勝のもとでその重臣・直江兼続が入った。
 1600年の関ヶ原の戦いは、そもそも上杉氏の軍備増強が嫌疑を招き、家康を総大将とする上杉討伐軍が進撃開始したところで、石田三成が反家康軍を挙兵したことからおこった。そのため上杉氏は関ヶ原には参加していなかったが結果的に西軍とみなされ、家康によって会津(佐渡や置賜=米沢なども含めて)120万石から米沢30万石に減転封となってしまう。これが上杉・米沢藩の始まりである。