西の口門跡 |
勝山公園(小倉城の西側)の駐車場から西の門跡から登城した。丁度桜の花がほぼ満開となっていました。 |
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西の口門跡の石垣 |
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西の門跡から水堀(北方面)を眺める。 |
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鉄門跡 |
西の口門を過ぎると左側に「鉄門跡があり、この石段を登ると本丸跡へと続く。 |
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第12師団司令部正門跡(赤レンガの門) |
鉄門跡を上がると本丸となりますが、正面に赤レンガの門があります。ここは第12師団司令部の跡で、1898(明治31)年に設置され、翌年、森鴎外が軍医部長として着任します。司令部は1925(大正14)年、軍縮によって、久留米に移転します。 |
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「筆塚碑」 |
使い古した筆や絵筆の供養塔です。 |
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復興天守(西面) 1959年(昭和34)に再建 |
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天守から続く「続櫓」 (現在は事務所として使用されている) |
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着見櫓 |
「続櫓から少し西に行くと、「着見櫓」かあります。小倉城の「着見櫓」として櫓上にて沖からの通航船を監視した櫓です。木造三重二層三階搭屋付、延べ330uの構造で、当時の場所にそのままの姿を再現しています。 |
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「野戦重砲」 |
着見櫓の近くに明治時代の野戦砲が置かれていました。日本陸軍では野砲・山砲の口径は75ミリと決まっていました。その火力の不足を補うのが加農砲と大口径榴弾砲で野戦重砲とよばれました。
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「多聞口門跡」 |
着見櫓から、八坂神社に抜ける石積みの下り通路にあります。多門口門は1728年(享保13)の「小倉城図」などの古地図には、本丸から北の丸へ内堀を渡る道に、1層の門として描かれています。 |
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大手門跡 |
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松の丸跡(西の口門の右側に広がっています) |
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「 白洲灯台」(松の丸の南の端にあります) |
若松海上保安部が管理している白州灯台は、豊前国企救郡長浜浦(現在の北九州市小倉北区長浜町)の庄屋「岩松助左衛門翁」が白州周辺の絶えない海難を防止するため私財を投げ打って白州への灯台建設に奔走し基礎部を完成させたものの志半ばで死去、以降明治政府に引き継がれ完成したものです。
白洲灯台」 |
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松の丸の外側(小文字通り)から眺める。 |
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槻(けやき)門跡 |
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大手先門跡(小倉城庭園へと続きます) |
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大手門の石垣と天守の遠望 |
大手門広場の奥に「八坂神社」があり、毎年7月第3土曜日前後の3日間にわたつてくりひろげられる、八坂神社の夏まつりに奉納する勇壮な「小倉祇園太鼓」を披露する会場となります。 |
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「八坂神社」の鳥居(北の丸跡) |
八坂神社は小倉城とつながる道が社殿の横にあり、その参道を行くと天守閣に繋がる多門口門跡に出ます。 |
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八坂神社の門 |
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「八坂神社本殿」 |
小倉城の旧「北の丸」にある。1617年(元和3)細川忠興が、愛宕山や片野にある祇園社の祠を鋳物師町(いもじまち)に移し、祇園社を創建し、城下の総鎮守とした。そして京都の祇園祭りを取り入れ、この祇園社が八坂神社となります。この八坂神社の夏祭りが祇園太鼓の小倉祇園です。1934年(昭和9)に現在地に移された。 |
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「八坂神社楼門」 |
築城城の敷地の一角にあるので神社の社務所なども城郭造りになっており、違和感のないように造られています。 |
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八坂神社(北の丸跡)と本丸に間にある空堀(西ら東を眺める) |
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八坂神社(北の丸跡)と本丸に間にある空堀(東ら西を眺める) |
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