総役所跡(現在は観光駐車場)から大手門への坂道。
 大手門への登り坂
大手門の石垣を眺めながら登る
 断崖絶壁の地に堅固な石垣
 大手門手前にそびえる西の丸の石垣
 大手道のカマボコ石(かなり急な階段を登る)
大手門跡の石垣(階段を登りきった所にある) 
城内枡形から見た大手門
大手門は、城の正面に位置する門で、追手門と本来はいう。追手とは、敵を追い詰める方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追い詰めて戦闘を集中させるのが目的であった。
岡城の大手門は、1594年(文禄3)中川氏入部後、大手、近戸、下原の三口を切り開かれ、1613年(慶長13)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。さらに1706年(宝永三)に建て直しを行っている。大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはかなりの注意が払われていた。 
 
 古大手門跡
 大手門の枡形
 西の丸東門跡。
 .桜の馬場と朱印倉跡
本丸に続く道の途中に中休所跡
家老屋敷跡(奥)と城代屋敷跡(手前)の石垣
 城代屋敷跡
 西中仕切から見た三の丸の石垣
貫木門跡
鐘櫓跡
 三の丸入口の太鼓櫓跡
三の丸への石段 
 三の丸跡

東中仕切門外に位置する米倉跡。

 東中仕切
 丸金倉跡から見る東中仕切のようす
 清水門の跡
 壮嶽社跡
 三楽亭跡
 二の丸跡と「滝廉太郎」の銅像
 空井戸
  深さ、73m 穴の直径3m 下部2m 入口より8mまで石で巻下し、底は水なく平たき石をつめている。北方の石垣の隙間より風が通っている。底より高き四尺のところに東向きに穴あり。その深さ手の届く程度のところに観音像らしきものが安置されている
本丸への石段 
 本丸跡
本丸跡
 .本丸跡 天満社
金倉跡 
本丸石垣と南側通路。右は断崖になっている
二の丸から清水谷を望む 
二の丸からくじゅう連山を眺める
 二の丸んら地獄谷を眺める
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岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。
伝承では、1185年(文治元年)に大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したと伝えられているが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流されていた。
南北朝時代の1334年(建武元年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。
『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは1369年(応安2年)以降のことで、岡城に入る前は直入郡にあった木牟礼城を居城としていたという。1586年( 天正14)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、1593年(文禄2)豊後 大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
1594年(文禄3)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、(「中川御年譜」に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割りなどをおこなった。)急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、1597年(慶長元)に完成、1663年(寛文3)には西の丸御殿がつくられ城の中心部分とされていった。
(岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎(本丸二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。)
現在残されている城郭は、明治に至るまで岡藩を統治した中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪(くるわ)からなっている。
1869年( 明治2)版籍奉還後の1871年(明治4)には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は1874年(明治7)大分県による入札・払い下げで(明治7年「大分県布告書」で県内五城の建造物、岡城は69棟が入札に付されている。)すべてが取り壊された。

撮影   2009.03.27
岡 城をゆく
  瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。現在二の丸跡に歌詞と共に滝廉太郎の銅像が建てられている。