山陽道と瀬戸内海航路の要塞の地、肥沃な岡山平野の小丘陵に築かれた平山城です。
天守の外壁に黒漆が塗られていたため、姫路の白鷺城に対し烏城(うじょう)とよばれ、美と広壮さを競った。築城のはじめは16世紀初頭、在地領主金光備前の築いた城砦であるという。
亀山城(沼城)の宇喜田直家が、金光氏を滅ぼし、1573年(天正1)に入城した。城下に山陽道を引き入れ、家臣団や商工業者を移住させ、城下町の反映をはかった。
直家は毛利氏組んだが、のちに織田信長に帰属し、子秀家は羽柴(豊臣)秀吉に従い、九州・小田原攻めに出陣の功績によって57万4千石の大名に成長し、豊臣政権の五大老にまでのぼりつめた。
秀家は秀吉の指示で城を大改装し、1597年(慶長2)、信長の安土城に習った壮麗な天守が完成した。旭川を迂回させて堀を掘削し、橋を架け、意欲的に城下町を拡張した。関ヶ原の戦いで、西軍の将秀家は徳川家康の東軍に惨敗し、八丈島に流される。ついで城主となった小早川秀秋は、在国2年ほどの治世を城と城下の整備にかけ、1602年(慶長7)に死没した。
遺領は二分され、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男で家康の孫にあたる忠継に、美作(みまさか)は森蘭丸の弟で信州海津城主森忠政に与えられた。岡山城は忠継の弟忠雄の藩主時代に半世紀の増改築を経て完成した。忠雄の甥光政により藩政の基礎が築かれ、明治維新まで歴代池田氏が治めた。
1882年(明治15),、城の建物のほとんどが撤去され、のちの残された天守や櫓は国宝(旧国宝)にしていされたが、1945年(昭和20)の空襲で天守は焼失した。
1966年(昭和41)に天守や不明門(あかずのもん)などが再建された。