苗木城をゆく
撮影  2010.0.7.18
苗木城は、岐阜県中津川市の市街地のはずれにある高森山(標高432メートル)に立つ山城です。
遠山孫太郎左衛門尉景長が、高森山に砦を築いたのが始まりです。那木の地名から苗木城と命名したと云われます。 その砦の築城は元弘年間(1331〜33年)と云われます。山頂からは、遠く恵那山や木曽の山並みが望め、眼下には木曽川が迫る難攻不落の城です。

 当初、西進してくる甲斐の武田信玄と同盟したが、やがて美濃を制した織田信長に従った。信長死後は、豊臣秀吉に抵抗、天正11(1583)年、秀吉旗下の森長可に攻められて落城する。
 城主の遠山友忠は徳川家康を頼り、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの時、友忠の子・友政が苗木城を奪い返す。それ以降、城は遠山氏12代にわたり、苗木藩1万石余の拠点として明治維新を迎えました。「桜吹雪」で有名な遠山の金さんは一族でもある。

 現在、国史跡に指定されている山頂の天守跡を訪れると、むき出しになった木組みの施設が異彩を放し、 一見、復元工事中の天守閣にも見えるが、そうではなく、天守閣を柱や梁(はり)だけで再現した展望台なになっています。苗木城の特異な建築様式を見せようと、中津川市が2006年に設置した。
 高森山は、花崗岩(かこうがん)質の巨岩が露出した岩山だ。そのため建物が建てにくく、江戸時代の天守閣も二つの巨岩にまたがるように建っていた。

 天守閣は2層(地上2階、地下1階)。岩石の頂上部に最上階があり、岩をくりぬき柱を組みあわせている。京都の清水寺のように建物の一部を斜面やがけから張り出させた「懸け造り」という工法で造られています。

苗木遠山史料館に展示されている苗木城推定模型
 苗木城址への案内看板
 苗木城址への登城口
四十八曲がり道(大手口道) 
 足軽屋敷跡
大手口を登ると右側に、石垣で造成された約30m程の広場には、足軽の宿泊施設の外、「小頭部屋 」「稽古場」等数棟建ち並んでいた。足軽が城に出仕する場合、最初にこの長屋に立ち寄ることになっていた。
龍王院跡
 足軽長屋の観真美隣地に「光耀山金厳寺龍王院」(こうようさんきんげんじりゅうおういん)という領主遠山家の祈祷所があった。真言宋の寺院であったが、明治維新の廃仏毀釈運動にて神職が支配するところとなった。
大手口には所々に自然の巨岩がむき出しになっている。
 大手道に残る石垣群
 風吹門跡
 二階が「飼葉蔵」として使われていた「風吹門」は大手門とも呼ばれ、城下から3の丸への出入り口に位置する。門の右側(南側)に門番が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用されていた。
 苗木遠山史料館に展示されている「風吹門」
 北門 跡
城の外郭にあった土塀付きの門で 門番はいなかつた。城の入口にある風吹門からみて、北側にある門であるから名前がついた。
ここから先、東側に下ると木曽川に、また北の道は家臣の屋敷群に通じる。北門の脇にある小池は、雨水が頼りの貯水池で、馬の飲み水に利用されてた。
天然の大石を巧みにとりいれた大矢倉跡石垣(三の丸)
大矢倉は、外観からは二層に見えるが、実際は三階建であった。一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために17世紀の始めに作られた。
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