津山城は 慶長8年(1603)2月、森忠政が信濃・川中島(長野県)13万7,500石から美作国18万6,500石に封じられ、同年3月下旬、美作の院庄に入りました。  忠政は、入封当初は、美作国院庄に入りますが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山(つるやま)の地を選びました。  
 翌慶長9年春から津山城の築城に取りかかり、鶴山(つるやま)を「津山」と改めて築城に着手。同年11月、手斧初めとして徳守神社の社殿を造営しました。
 築城開始から12年後の元和2年(1616)3月津山城が完成し、城下のまちづくりも元和の末(1623)にはほぼできあがりました。 
 元禄10年(1697)6月、森家は4代藩主・長成の没後、その養嗣子が江戸に向かう途中重病に陥り江戸出府が不可能となったため、幕府は森家の領国を没収しました。
津山城は、吉井川と宮川の合流点を眺める若干高い山の自然地形を巧みにいかしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城としました。鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手(表)、北を搦手(裏)としました。南・西・北の山麓(内山下)は総曲輪として、その外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込んでいます。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田川(いだがわ)を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成しています。
津山城を行く
 津山藩初代 森忠政 坐像
 
備中櫓
 
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 撮影  2011.11.14