赤穂城をゆく

赤穂城は古くは「仮屋城」(かりや)と呼ばれ戦国時代に宇喜多秀家が起工した城である。のち姫路城池田輝政の持城となり、その子輝興が城主となった。しかし輝興は発狂して改易となり、1645年(正保2)に常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)から5万3500石を授かって入封した浅野長直(ながなお)が移封されてきた。長直は当初の城は陣屋造だった城を本格的に改修するように、近藤三郎左衛門正純(まさずみ)に築城設計を命じ、1648年(慶安1)から1661年(寛文1)まで13年間を費やして完成させた城である。
その縄張は甲州流軍学によってなされたといわれ、本丸と二の丸は輪郭式(りんかくしき)に、二の丸と三の丸は悌郭式(ていかくしき)となる海岸平城である。
この城を築城した浅野家は、1701年(元禄14)の江戸城中松の廊下での刃傷事件によって断絶し、その後は永井家を経て森家の居城となって、明治の廃藩置県を迎えた。
これにより城内は民有地となり城郭遺構もかなり改変を受けたが、1971年(昭和46)に国史跡に指定され、以後計画的に公有化と整備が進められている。
赤穂城大手門

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最近都市の原点である城郭を見直し、町のシンボルとして城址を整備する自治体が沢山出ている。
訪問した赤穂市でも「忠臣蔵」の赤穂浪士討入り300年を機会に2000年(平成12)頃から、思い切った赤穂城整備計画を進めている。
おそらく赤穂ほど注目される史跡整備を実施している都市はないであろう。既に平成5年に本丸にあった学校は移転し、全面発掘調査がなされ、出土した庭園と御殿跡の配置が遺構展示されている。
これに続いて二の丸の民家をすべて撤去し、失われていた二の丸と三の丸の中間の水堀と二の丸御殿及び庭園跡を全面発掘し、その出土遺構を展示すべく目下整備中であり完成が待たれる。