赤穂城をゆく
山鹿素行像(やまがそこう)
儒学者であり兵学者であった山鹿素行は、浅野長直に禄1000石で招聘され江戸において藩士に文武を講じた。
1653年(承応2)9月から翌年5月まで赤穂に滞在し、その間築城中であった赤穂城二の丸門付近の縄張りを一部変更し、また藩士に兵法指南をするなどその手腕を発揮した。
その後1666年(寛文6)にその著書「聖教要録」が幕臣の問題とするところとなり、赤穂藩へ配流の身となる。赤穂においては二の丸の大石頼母屋敷の一角で8年余りの謫居生活を送っており、その頃の様子は著書「年譜」からうかがい知れる。これによれば謫居の身ながら厚くもてなされ、饗応を受けたり頼母邸の裏手にある金帯池での遊興を楽しむこともあったという。
山鹿素行像1925年(大正14)に大石頼母屋敷跡に建立され、第二次世界大戦中の拠出を経て1958年(昭和33)再建された。その後1998年(平成10)に二の丸門内側に移設され現在に至っている。
天守台
赤穂城と言えば「忠臣蔵」の舞台とし有名な城で知られている。テレビや映画では赤穂城の天守閣の建物が映るが、実際の赤穂城には天守台石垣は築かれたが、天守はついにあがらず、明治を迎えた。花岳寺には赤穂城にあがる予定であった天守の模型が残っている。
天守台から見た本丸庭園の池泉
本丸庭園と天守台
石組暗渠 排水路跡
本丸庭園内の池
御殿跡にある旧水道角枡
本丸櫓門から見た御殿跡

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