尼崎城をゆく
明城小学校の南側校庭にある城址碑
模造の石垣と土塀
石垣
模造石垣と土塀の遠景 (パロラマ合成)
本丸があったとされる明城小学校

桜 井 神 社 (境内説明板より)

当神社は、廃城後、藩主桜井家の治績を偲び永く遺徳を讃えんものと、創建団体、信愛社を結び、旧尼崎町、別所を中心に、旧藩地間の有志を募り、明治十五年、西二の丸跡に建立したものを、昭和三十六年、現在地、西三の丸跡へ遷宮した。  本社には、郷土開拓の祖ともいうべき歴代の尼崎城主の御霊をおまつりしている。又、十二代城主忠告公(亀文と号す)の歌碑や、天守閣の棟瓦、巽櫓のシャチ瓦、尼崎市々章の原形の槍の鞘等、その創建の由来にかゝわる諸種の文化財が保存されている。  末社に、尼崎瓢箪稲荷社等が有る。

尼 崎 城 天 守 の 棟 瓦 (神社境内説明板より)

古い奴とお笑いでしょうが「古城」の歌中に あーあー仰げば侘し天守閣 と有ります様に私は元和九年(一六二三)築城されてより明治六年(一八七五)まで、天守の上より、又、地上に降り立ってからも、尼崎の人々の生活がうまく行きます様に祈り続けて来ました。長い間生き続けてきましたので表面がくたびれておりますが、中味はまだまだしっかりしております。どうぞ末永く可愛がって下さい。

兵庫県のお城へ
応仁の乱の東軍の大将、細川勝元の子、細川高国は、兄弟の澄元と家督を廻る争いが絶えず、1526年(大永6)、澄元を破った高国がこの地に築城し、従兄弟の細川尹賢に守らせた。
これが尼崎城の始まりと言われている。往時は現在の尼崎城より北東に位置していたとされ、大物城とも呼ばれた。
細川氏が摂津から勢力を失うと有岡城の荒木村重が勢力を伸張し、天正期には尼崎城を支城化し、嫡男村次が入城している。
尼崎城は、現在の北城内・南城内の約300M四方の地域に築造され、三重の堀を持ち、現在の庄下川も西側の外堀として利用されていました。沖から見ると城全体が海に浮かんでいるかのように見え、美しく水に写る姿は「琴浦城」の名称で親しまれていました。本丸(現在の城内中学校付近)には高さ約18Mの四層の天守閣が築かれていました。  この尼崎城は、元和4年(1618)から数年かけて、譜代大名の戸田氏鉄によって築城されたものです。  現在地あたりは二の丸の前の内堀と中堀を結ぶ横堀や「四角堀」と呼ばれる内堀と外堀とを結ぶ桜堀のあったところで、この付近に「伏見門」がありました。戦国時代までの中国街道が旧町場を抜けて通っていました。                                            尼崎市教育委員会