千早城をゆく
「楠木正成のお墓」(五輪塔) |
金剛山山頂から千早神社に下ってくる道の脇に「楠木正儀の墓」と伝わる五輪塔が建てられている。 また、一説には「正成の首塚」とも言われており、石の扉に当たる部分には菊水の図柄が彫られている。 |
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「楠木正成-桜井の別れ」 (筑士神社蔵) |
楠木正成(くすのきまさしげ)は永仁2年(1294年)河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれた。元弘元年(1331年)正成は後醍醐天皇のお召しにより鎌倉幕府打倒に立ち上がり幕府は滅亡した。然るに、足利尊氏の反乱によって各地で再び戦闘が勃発。1336年(延元1年)正成は後醍醐天皇に命じられ、足利尊氏の大軍を迎え討つべく兵庫へ向かい殉死した。 下記絵図は、正成が討伐に向かう途中、桜井の地(大阪府三島郡島本町)にて息子の正行(まさつら)に後事を託し別れを告げる時の、有名な「桜井の別れ」のシーンで、皇紀2600年(昭和15年)を記念して作成 ・奉納された(「皇紀」とは初代神武天皇が即位した年を元年とし、戦前は、現在の「西暦」よりむしろ「皇紀」が広く使われていた)。当時の天皇主権制の下で、正成は天皇に忠義を奉げた武将として崇拝されていたことが伺える。ちなみに太平洋戦争中活躍した日本の戦闘機「零(ゼロ)戦」は、ちょうど皇紀2600年に開発製造されたため、「2600」の「00」をとって「零戦」と名付けられた。 |
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青葉茂れる桜井の作詞 落合直文 作曲 奥山朝恭 1、青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍(しの)ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か 2、正成(まさしげ)涙を打ち払い 我子正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫に赴(おもむ)かん 彼方(かなた)の浦にて討ち死にせん いましはここ迄来(きつ)れども とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ 3、父上(ちちうえ)いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん 此(この)正行は年こそは 未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に 御供(おんとも)仕(つか)えん死出(しで)の旅 4、此(この)一刀(ひとふり)は往(いに)し年(とし) 君の賜(たま)いし物なるぞ 此世(このよ)の別れの形見にと いましにこれを贈りてん 行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん |