岐阜城をゆく
岐阜県のお城へ
信長は山上・山麓に本格的な城を築き、城下町を造って、新たに「岐阜」と命名した。
中国の文王が「岐山に興って天下平定をなしとげた」としいう故事に基づくものである。阜は丘の意。
「麟」(りん)の字の花押(かおう)とともに天下布武」の印判を使用し始め、岐阜の地を拠点として、天下統一を目指した城下町造りに着手した。
城下町の発展の繁栄を図るために、市場税の免除や座(調整商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城2年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」は、町の様子を「人口8千ないし1万人、バビロンの混雑」のようだと本国へ報告している。
信長の岐阜城も以後8年半、その「天下布武」の拠点となった。
1575年(天正3)信長は岐阜城を長男の信忠(のぶただ)に譲り、翌年に安土城を築いてここに移り、天下統一へ大きな前進をしましたが、、1582年(天正10)明智光秀の謀反による「本能寺の変}で、信忠とともに京都で討死した。
その後信孝(のぶたか)・池田元助・輝政・羽柴秀勝・織田秀信とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後は、西軍に味方した秀信は、1600年(慶長5)の関ヶ原合戦の前哨戦で東軍に惨敗し、8月23日に落城、翌年廃城となり、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で死去した。
現在は復興天守が建ち、本丸跡・二の丸跡・上格子門跡・馬場後・信長の居館跡・御手洗池などが残っており、岐阜市指定史跡になっている。
濃尾平野の北端、岐阜市街地の北東部に屹立する金華山(329m)上に築かれた山城である。
古くは井ノ口城・稲葉山城と呼ばれた。南と北に木曽川・長良川という天然の堀をもち、三方を急峻な断崖に守られた日本有数の要害であった。
13世紀の鎌倉時代、二階堂行政がここに初めて城を築き、室町時代には守護土岐氏の守護代斉藤利永(としなが)が修築して居城としたとされるが、この城が美濃を制する軍事的、行政的な名城に飛躍するのは、16世紀半ば急速に台頭した戦国の梟雄(きょゆう)斉藤道三 によってである。
山頂には見張櫓・武器蔵等が造られ、城下町の整備も始められた。

ところが道三は、稲葉山を譲った長男の義龍に討たれ、義龍の子龍興(たつおき)が城主の時尾張の織田信長によって落城した。