岐阜城をゆく
金華山ロープウェー駅の近くに信長居館跡がある。正面には若き日の信長の像があり、居館の冠木門が復元されている。階段を上がると千畳敷には居館後が発掘されており当時の居館跡が偲ばれる
1567年(永禄10)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井ノ口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓あたりには人口的な2〜3段のテラス状地形があり、最上段を「千畳敷」、中段以下の大部分を「千畳敷下」という。
ポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」がその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷から千畳敷下へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁遺構・石垣・階段・水路などが発見された。
岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、1600年(慶長5)関ヶ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な構造が完成したと考えられる。
巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手門などにうかがえるが、この時代には稀である。
発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。
石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、または埋めて作られた通路などが上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。また数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中には幾つかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成がおこなわれたことを示唆している。
壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺構である。
岐阜県の城へ
「若き日の織田信長」の像
織田信長居館跡
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冠木門 居館跡の石垣 下層遺構群 入角と出角石積 下層石積  
水路石積 水路石積 水路 千畳敷跡 千畳敷通路・階段