伊波城をゆく (いはグスク) |
伊波城址は、1322年に北山王となる怕尼芝・羽地(はにし)按司に滅ぼされた今帰仁城主の子孫(伊波按司)が、この地に逃れて来た後に力を付け城を築いたものとされる。石川市街地を北東に見下ろす標高87mの丘陵に位置し、東西45m、南北52mの範囲に一重の石垣をめぐらせ単郭式の城で面積は3712㎡の比較的小型のグスクといえます。 城壁は自然の地形を巧みに取り込みながら石垣をS字状にくねらせ、自然石をほとんど加工せずに積上げていく野面積みという技法で作られています。 1989年(平成元年)の発掘調査によって城内の地表下50cmから数回の立替をしたと思われる無数の柱穴跡が発見され、掘っ立て柱建物の存在が確認されました。また大量の地元産土器や外国産土器、中国産の青磁や白磁、三彩陶器、褐秞陶器、染付、南島産の須恵器なども出土しており、伊波按司の交易の広さと力を知ることが出来る。 また当時の人々の食べ残した貝殻や魚や猪の骨なども出土しています。これらの遺物は13世紀後半から15世紀のものが多く出土していますが、同時に貝塚時代の土器も多数出土しており、約2800年前の貝塚が伊波グスクを含めた丘陵全体にあったことがうかがわれ、この地域が古代から人々の重要な居住地であつたことを改めて教えてくれます。 沖縄県・石川市教育委員会の説明看板から |